峰隆一郎 殺人急行北の逆転240秒 目 次  一章 事件調査依頼  二章 黒いコートの男  三章 六年前の事故  四章 スマイルバッジ  五章 殺しの構図  六章 二つめの自殺  一章 事件調査依頼     1  三月十一日、土曜日——。 『ピニヨン』は、渋谷宇田川町のビルの中にあるスナックバアである。パリにピニヨン通りというのがあるらしい。『ピニヨン』はそこから取ったもので、店内の造りもヨーロッパ風で、近ごろのバアにしては、どこか古風な造りだった。カウンターもワイン色に塗られている。それほど広い店ではないが、三十人ほどは入れる。  西方有里子《にしかたゆりこ》は、カウンターに坐って、バーボンの水割りをのんでいた。彼女は二十五歳になり、大学の法科を出て、いまは弁護士事務所で働いている。身長百六十センチ、スリムで男たちの目を魅《ひ》くプロポーションをしていた。低いヒールの靴をはいているので、背は高く見えないが、脚が長く腰のあたりも形がいい。このプロポーションでハイヒールをはくと、男たちに対していやみになる。もちろんプロポーションを売り物にする商売ではなかった。どちらかというと、知性派を主張していた。  無理してメガネを掛けている。少し近眼だが、ほんとはメガネを掛けるほどではない。彼女はメガネを掛けた自分の顔が好きだった。メガネを外した顔はどこか締りがなく、稚《おさな》く見える。だから、大学のころからメガネを掛けはじめた。  女だから、たとえ恋人はいても、男たちの目を意識している。もっとも、女が男を意識しなくなったら、すぐオバさんになってしまう。女は結婚すると男を意識しなくなる。有里子の高校の同級生の中には結婚しているものも多い。同窓会など開くと、オシャレもしないで、オバさん面で出席する。そして、ダンナと子供の話になる。こういう女たちは、すでに女ではなくなっている。自分で女を捨てているのだ。  ダンナがいるから、もう他の男の目を魅《ひ》くことはない、と思い込んでいる。このような女を見ると、有里子は、愚かな女、と腹が立ってくる。こういう女に限ってダンナに浮気されるのだ。女はたとえダンナを持って、子供も生んでも、四十になっても男を意識していなければならない、と思う。  近ごろは、オバタリアンなどという言葉がはやっている。つまり女としての羞恥心を失っている女たちだ。二十五ですでにオバタリアンというのは情ない。 「何を考えているんだ」  隣りの椅子には、草加良彦《くさかよしひこ》が坐っていた。 「何でもないわ、面白い話をして」 「面白い話なんてのはないね」 「だって、良彦兄さん、たくさんの女と遊んでいるんでしょう」 「女というのは、面白くない」 「面白くないのに、女たちと寝ているの」 「そう、惰性だな」  良彦は、煙草に火をつけ、煙りを吐く。有里子も知らない外国たばこである。  有里子にとって、良彦は従兄《いとこ》になる。有里子の母と良彦の父が兄弟なのだ。だから彼女は良彦兄さんと呼んでいる。良彦は二十七歳。医科大の学生である。  良彦の父、草加|亮三《りようぞう》は、北海道・札幌で草加総合病院を経営しているし、院長でもある。亮三のあとを継いで医者になる運命にあった。だから、地元の中学を卒業すると、東京の高校に入学した。札幌の高校から医科大に合格するのはむつかしい。だから、高校のときから東京のマンションに一人で住んでいた。  もちろん、有里子の家にはときどき出入りしていた。だから、良彦とのつき合いは十年以上になる。彼女の父親は商社マンである。十年前に、小田急線沿線の柿生《かきお》に、ローンで建売住宅を買った。  良彦は、よく女たちと遊んでいる。有里子が知っているだけでも五人はいる。これまでにどれくらいの女を知っているのか。 「女の人を好きにならないの」 「はじめのころは好きだと思った。だけどそれが錯覚だったとわかったんだ」 「錯覚だったの」 「みんな錯覚さ。男と女の間には真実なんてものはありはしないのさ」 「もう、情熱なんてないの」 「少くとも、女に対してはね、他のものには情熱を持てるかもしれないけど」 「すると、もう女の人とは、ベッドに入らないってこと?」 「それはまた別さ。情熱はない。だけど女は抱ける」  どこか投げやりな男である。それが女たちにはニヒリストに見えるらしい。だから、女たちが興味を持つ。もちろん、それだけのものはあった。身長百七十七、体重六十キロ、スリムな体つきで、マスクも甘いし、女をその気にさせるムードを持っているし、口もうまい。  女は、まず男の容姿を見る。だから良彦に興味を持つ。そこを口説かれると、ころりと落ちてしまう。金があって着ているもののセンスもいい。多少|気障《きざ》だが、そこもまたいいらしい。  女を口説くときには、熱心であってはいけないのだと言う。どこか冷たくなければならない。あまり熱心になると、女が危険を覚える。冷たく、それとなく口説くから、女はその気になってくる。そして、女とベッドに入るときには、別れるときのことを考える。  この女とは、どのように別れたらいいのか、と考えていると、女の体にのめり込まなくて済むのだそうだ。 「西方さま、お電話が入っています」  とバーテンが言った。そう、と有里子は椅子を降り、レジにある赤電話に歩く。良彦は、その後姿を見送った。そして尻のあたりを見て、唇をゆがめて笑った。  有里子も、十年前は高校生だった。そのころから、いい女にはなりそうな気がしていた。もっともいい女は十五歳でもいい女である。  女というのはいろいろいる。少女から老女までの間に女がある。それが普通である。人によって女の時期が長かったり短かったり。結婚してすぐに女を捨てる女は、女の時期が短いという。もちろん結婚してもずっと女を主張する女もいる。  少女から女の期間がなくて老女になってしまう女もいる。女である時期がほとんどないのだ。十五歳ですでに老女の面影を持っている少女もいる。逆に少女から六十歳まで女だというのもいる。そういう意味では、女というのは怪物だ。  有里子は、高校のころに、女としての色気を持っていた。どこかまぶしいようなところがあったのだ。もちろん、店の中を歩きながら、電話をしながらも、彼女は男たちの目を意識している。男の目を意識しない女は、良彦に言わせると女ではないのだ。  彼女は、もどって来て、椅子に坐った。 「烈《れつ》は、用ができて来れないんですって」 「約束しておいて破るとは、悪いやつだな」 「仕方ないわよ、用ができたんだから」 「有里子は、多門《たもん》に寛大なんだな」 「そりゃ、来て欲しかったけど、仕方ないでしょう」  多門烈《たもんたけし》、良彦の高校のころからの親友である。烈を�たけし�と呼ぶ者はいない。�れつ�である。有里子もれつと呼んでいる。彼女は烈を良彦を通して知ったのだ。三年ほど前から、有里子は烈とは恋人としてつき合っている。  烈も二十七歳。良彦よりは身長は少し低いが、がっしりとした体をしている。高校のころからスポーツ万能だったという。リッチな良彦に対して烈はたくましい。烈は大学の法科を卒業して、いまは法律事務所で働いている。司法試験を四回も落ちていた。将来は検事志望である。弁護士志望の有里子とは、同じような目的である。そのせいか、気が合っていた。彼女は烈の涼しげな目つきが好きだった。泰然自若としている。あわてたり、驚いたりすることがあまりない。 「まあ、いいさ。久しぶりに二人で呑める。これまで、有里子と二人だけで呑む機会はあまりなかったからな」 「そう言えばそうね」  そう言いながら、彼女は、バーボンの水割りをお代りした。 「多門を好きなのか」 「愛しているわ」 「愛か、いまごろそんなものがあるのかな」 「良彦兄さんが、愛を知らないだけで、たくさんあるわ」 「ただのエゴじゃないかな。独占したいという願望を愛だと錯覚している。錯覚だよ、愛なんてものは」 「錯覚じゃないわ。あたしの胸の中に現実にあるのよ」 「愛というのは、好きだとか、惚《ほ》れているということとは違うんだよ。その人のために死ねる心境を愛という。有里子は、多門のために死ねるのか」  有里子は、黙った。あたし、烈のために死ねるのかしら、と思ってみる。わからない。自分のために烈を愛している。烈を思っていると胸苦しくなるときがある。良彦の言うようにエゴなのかもしれない、と思ってみる。 「愛している、なんて軽々しく言ってもらいたくないね」 「でも、烈はあたしを愛してくれている」 「そう、もしかしたら多門は、有里子のために死ねる男かもしれんな。現代では珍らしい男だ。もし、有里子がおれと寝たとしても、多門は許すだろうな。もし多門が他の女を抱いたら、有里子は多門を許せるかな」  うーん、と彼女は考え込んだ。 「そんなことはないと思うけど」 「男が他の女と寝る。これは愛とは関係ないよ。他の女と寝るのは、男の動物としての本能なんだ。許せない、というのならば、それは、有里子の独占欲なんだよ。あるいは、有里子の矜《ほこ》りかな」 「もし、良彦兄さんに、愛する人がいて、その女が他の男に抱かれても許せるの」 「ぼくに愛する女なんていないけど、もしいたとして、その女が浮気すれば」 「ほら、やっぱり気になるんじゃないの」 「その女が男に抱かれて倖せならば、それでいいんじゃないかな」  有里子は、酔いを覚えた。もちろんアルコールをのめば酔う。酔わない酒なんてものは意味がない。 「もし、ぼくが愛するとすれば、有里子くらいじゃないかな」 「なに馬鹿言っているの。あたしたち、従兄妹《いとこ》じゃないの」  良彦も少し酔っているようだ、と思った。 「兄弟は他人のはじまりという。いとこなんて他人そのものだよ」 「あたしにはそんな風には考えられない」 「近親相姦だって、倫理的に生物学的に禁止しているだけなんだよ。古代は近親相姦はごく当り前のことだった。江戸時代だって、裏をのぞけば近親相姦はいっぱいだ。親子は他人のはじまり、そういうところに近親相姦は発生する。妹が美しければ他人にやりたくない。エゴの発生だな」 「ヘンな話になったわ。もとにもどして」 「多門が来なかったのが悪いんだな、柿生まで送ろうか」 「いいわよ、そんなの、自分で帰れるわ」  有里子は、こうして良彦と酒をのんでいるのは、いやではなかった。高校生のころ、良彦に憧れたこともあったのだ。     2  三月十三日、月曜日——。  三月といいながら、北海道はまだ冬である。越智倫子《おちみちこ》は、釧路の駅にいた。オーバーコートの襟《えり》に首を埋めて、待合室の椅子に坐っていた。首をひねると男は、むこうの壁のあたりに立って煙草を吸っていた。  倫子は二十九歳になる。衣服の中の体はむっちりと肉付いていた。腰から腿《もも》にかけて肉付きがよくなっていることは、彼女自身がよく知っていた。あと半年で三十歳の大台にのる。もちろん、夫と子供はいた。  住いは札幌にある。昨日、家に電話があって、男に呼び出され、この釧路に来たのだ。倫子は、ふふっ、と笑ってみる。思ってもみない男からの電話であった。以前からよく知っている、というほどではないが、ときどき会うことはあった。  男の電話を受けて、倫子の胸はときめいた。こんなときめきは、久しぶりのことだったのだ。彼から電話で誘われるなんて、倫子にしてみれば、光栄だったのだ。  札幌で会うのは目立つから、釧路にしようと彼は言った。倫子は目立ったって、途中で誰かに会ったってかまわない。彼の事情だろうと思った。彼に誘われれば、釧路だって東京だっていく。  遊ぶ男だということは聞いていた。遊んでもらうだけでいい。彼に抱かれているとき、一瞬でも光り輝くものがあれば、それだけで充分だ。一度だけでもいい。人生というのは、なかなか光り輝くときというのはない。  今朝早く、札幌発八時○四分の、特急『おおぞら1号』に乗った。夫の剛《つよし》には、釧路の友だちのところに行ってくると言った。もちろん、夫の食事は作った。子供は母親に頼んだ。帰りは釧路から深夜に出る急行『まりも』に乗る。すると札幌には早朝に着くのだ。夫に対する後めたさはなかった。外泊するわけではないのだからと。事実は一泊するが、それは車中泊である。  釧路には一二時四六分に着いた。そこから、男が泊っている釧路観光ホテルに向った。これほど浮き浮きドキドキしたことはなかった。二十九年生きて、こんなに胸がときめくことは一度もなかった。  体は男を期待している。愛とか恋とかいうのではない。だけど期待に胸が膨《ふくら》んでいた。彼が待っているホテルに入り、そしてシャワーを浴びた。  二十九歳の体には自信がある。プロポーションとしてではない。肉付きである。男をがっかりさせないだけの体の張りはある。脂《あぶら》は充分に乗っている。男に満足を与えられるだけの体だと思っている。  もちろん、男と女の情事である。自分だけ満足しては申しわけない。男にも満足してもらわなければならないのだ。  急行『まりも』は二二時二八分発。情事の時間としては、充分すぎるほどだ。男の腕の中で悶《もだ》え、途中でまどろんだくらいである。もちろん、ホテルのレストランで食事をした。そして部屋にもどると、また求め合う。  女の体というのは、きりのないものである。果てしなく絶頂にたどり着く。男の腕の中でどれほど悶え狂ったことか。死ぬ、もうやめて、と口走りながら、また男の体にしがみついていく。  もちろん、男は女の体のあつかいには馴《な》れていた。正味七時間ほどだった。男は女に比べると三倍疲れるという。それなのに、倫子がくたくたになっても、男はシャンとしていた。疲れない方法を知っているのか。  いま男は倫子の斜め後に立っている。全く疲れた様子ではない。平然とした顔で立っている。彼女はできれば、この場に横になって眠ってしまいたいくらいだ。  急行『まりも』は二輛が寝台車である。もちろん、男は寝台券を取っていた。男も一緒に札幌までいくのだ。その寝台の中でも、男は重なって来るだろう。女は、少なくとも倫子はもうたくさんということはない。すでに寝台の中での期待もあった。 「あたしって、どうしてこんなに欲張りなのだろうか」  と思い、思わず手で頬《ほお》を撫《な》でていた。ホテルのベッドでの自分の乱れ方を思うと、恥ずかしくなってくる。 「でも、こんなことって、一生に一度なんだわ、きっと」  夫や子供に迷惑かけるわけじゃない。一晩だけのことなんだ。いつもはほぼ貞淑な妻であるし、よい母親なのだ。  気になってまた振りむく。男は倫子にウインクした。顔をもとにもどしたとき、 「あら、倫子《みちこ》じゃない」  と声がして、倫子はギクリとなって見上げた。彼女は、目の前に立った女が誰だかわからなかった。頭の襞《ひだ》の中を忙しく探す。 「ホラ、わからない、陽子《ようこ》よ、橋立《はしだて》」 「ああ、陽子、陽子なのね」  橋立陽子、高校のころの友だちである。たしか、さっき列車が着いたようだった。それで降りてきて倫子の姿に気付いたのだ。 「何年ぶりかしら」 「そう、釧路にいたの」 「ええ、三年前に結婚したの。倫子、倖せそうね、輝いている」 「ええ、まあ」  と頬を押えた。 「釧路には何か」 「遊びよ、次の『まりも』で札幌に帰るの」  振り向くと男の姿はなかった。  駅構内のマイクが、急行『まりも』の改札を告げていた。 「誰かと一緒なの?」 「一人よ。誰かと一緒なわけないでしょう」 「そう。ゆっくりお喋《しやべ》りしたいけど、時間ないわね」 「またね、あなた、同窓会に出ないんだから、今年は札幌まで出ていらっしゃいよ。高校卒業して、ずっとじゃない」 「そうね、今年は出てみようかしら」  倫子は、改札口に向う。陽子はついてくる。 「みんな、元気なの」 「そうみたい。ときには電話くらいちょうだい」 「そうね、十二年か。懐しいね。倫子はきれいになったみたい」 「もうオバさんよ」  改札で、キップを出した。キップを切ってもらって中に入り、振りむき、陽子に手を振った。  こういうことってあるのだ。だから彼は離れて立っていた。もちろん、倫子は男のことが誰かに知られても困るということはなかった。陽子は、彼に気付かなかったかしら、と思う。  急行『まりも』は、五輛編成である。一号車と二号車は寝台車になっている。三号、四号車がリクライニングシートの指定席、五号車が自由席である。倫子の急行券は二号車二番下となっている。一番下席には男が坐っていた。オーバーを脱いで、煙草を吸っていた。窓ぎわには灰皿がある。 「高校のときのお友だちなの」  男は頷《うなず》いた。 『まりも』は、定刻の二二時二八分に発車した。この列車は北海道の原野を東から西へ走ることになる。男は、吸殻をひねりつぶすと、乗車券と急行券を倫子に渡して立ち上がった。 「トイレ!」  とひとこと言った。男が去って間もなく、車掌が車内改札に来た。倫子は二組のキップを渡した。 「お連れさまは」 「いま、トイレです」 「どうも有難うございました」  と車掌は帽子のひさしに手をかけ、前の一号車のほうに歩いていった。  男はもどって来た。 「疲れたでしょう、寝ましょうか」  たしかに疲れていた。倫子は甘い目つきで男を見た。この寝台車の中では手を触れて来ないのかしら、と思う。体は足りていた。だが触れられれば、またパッと燃え上がる。体の中の火はまだ消えたわけではない。くすぶっているだけだ。  ぐっすり眠れるだろう。札幌に着くまで目はさめないのに違いない。倫子はカーテンを閉めて着換えにかかった。スリップとパンティの上に浴衣《ゆかた》を着た。あとはハンガーに掛ける。スリップの布を乳首が小さく突き上げている。もしかしたら、という気もないわけではない。そのときには、スリップとパンティを脱げばいいわけだ。  抱いて欲しい気もするが、倫子のほうからは言い出せない。もしかしたら眠れないかもしれないと思う。横になって毛布を胸の上まで引き上げる。  列車は、ゴトン、ゴトンと揺れる。その振動が体に快い。横になって灯《あか》りを消した。ホテルのベッドの光景が浮かんでくる。よく、あんなに淫《みだ》らになれたものだと思う。  あの橋立陽子は、何かを感じなかったかしら、と思い、ふふっ、と笑う。 「倫子さん」  と声がかかって、ドキリとなった。男が呼んでいるのだ。体を起した。パンティを脱ごうかどうかと迷った。男が呼んでいる。もちろん体を重ねるためである。彼女は毛布の中でパンティだけを脱いだ。カーテンを開けると、むこうのカーテンも少し開いている。彼女は通路を渡って、むこうのベッドに移った。  男も浴衣姿になっていた。男の体に抱きついて、 「うれしいわ」  と言った。男は、浴衣の下は素肌である。彼女は、男の股間に手を入れた。ペニスは勃起していた。それを手にして、もう一度、うれしい、と言った。 「こっちのほうが、聞えないと思ってね」  二番下の背中には三番席がある。そこには乗客がいるはずだった。一番席の背後には客席はない。それだけ声は聞えにくい。  倫子は、男の足の間にうずくまり、ペニスに唇を押しつけた。     3  急行『まりも』は、十四日午前六時五○分、終着の札幌駅に着いた。乗客が降りたあと、竹内車掌は車内を点検して回っていた。忘れ物もある。手にはケース入りの眼鏡を持っている。乗客の忘れ物である。  一号車から歩いて二号車に入った。まだ朝早い。眠っている乗客もいる。降りた乗客はカーテンを開いている。二号車の一番下席と二番下席が、まだカーテンは閉っていた。一、二番の上席に乗客はなかった。 「もしもし」  と声をかけた。 「お客さま、まだ、おやすみですか、失礼します」  と声をかけ、先に二番下席を開いた。そのとき竹内は妙な寒気を覚えた。二番下席には毛布は広げられていたが、そこに人はいなかった。一番下席のカーテンを開こうとして、その手を止めた。何か冷んやりとした気配を覚えた。人が眠っているのなら、息までは聞えなくても、何か暖味があるのだ。人の気配が感じられないのに、妙な冷めたさを感じる。車内が冷えているわけではない。  カーテンを十センチほど開いた。そこに白いものを見た。更にカーテンを開いて、竹内は、 「わっ!」  と声をあげてよろめいた。後頭部を、二番上席の端にぶっつけた。そこにある物体を、目を剥《む》いて見た。それはすでに物体であった。白く見えたのは女の肌だった。白い腹があり、下腹部には黒々とした茂りがあった。腿《もも》は三十度ほどに開いていた。豊かな肉付きである。  通路側に頭を向け、仰向けになっていた。豊かな乳房があった。その左乳房にナイフの柄が突っ立っていて、柄元のあたりにぬめるような紅いものがあった。血である。まだ乾ききってはいない。双眸《そうぼう》は閉じている。  竹内は、すぐには反応できなかった。足が竦《すく》んだのかもしれない。彼はゆっくり動いた。通路へ出ると、走った。列車を降りると、 「人が、殺されている!」  と叫んだ。十メートルほど先にいた駅員が振りむいた。 「殺されている。鉄道警察隊を」  とまた叫んだ。駅員が走った。竹内はその場に立っていた。この場は死守しなければならない、と言った顔で。落ちついているつもりでも、頭に血が昇っていた。ホームは寒い。いかにも足が頼りなかった。  むこうから、三人の警察隊員が走ってくる。 「どこです?」 「ここです」  と二号車を指さした。案内するつもりで、竹内は先に乗り込んだ。そして、一番下席を指さした。  隊員の一人が、死体を見て、 「札幌西署だ、鑑識もだ」  鑑識課は道警にある。一人の隊員が走った。 「あなたは」 「竹内車掌です」 「乗務車掌ですね」 「そうです」 「札幌西署で事情を聞きますから、そこにいて下さい。手を触れていませんね」 「カーテンを開けました」 「すると、カーテンは閉じていたんですね」  竹内は頷いた。  助役と数人の駅員が走って来た。助役が、 「このホームは使いますので」 「すぐにですか」 「いや、少しは時間があります」 「札幌西署と鑑識が来るまで待ってくれますか」 「それくらいの時間はあると思いますが、殺人事件ですか」  助役の位置からは、一番下席の死体は見えない。覗き込もうとしたが、やめて列車を降りて行った。  竹内は、一番下席の向いから、死体を見ていた。隊員は、ただ現場の確保だけである。手はつけられない。  三十歳前後の女である。浴衣に腕を通していたが、肌は胸から股間までもさらしている。肉付きがよく、きれいな死体だった。白い肌が青白く見える。もちろん、血の流れは止まっている。それでよけい、青白く見えるのだろう。  刑事たちは遅れていた。もちろん、この時間では、刑事たちはまだ出署してはいない。宿直の刑事が駆けつけるのだろう。  十五分ほど経って、二人の刑事が走り込んで来た。まず、二人は白い死体を覗き込んだ。 「もったいない」  と一人の刑事が言った。 「こちらが第一発見者です」  と隊員が言った。 「竹内です」  鑑識が到着するまでは、刑事も手がつけられない。刑事は、猪原《いはら》と鳥越《とりごえ》と言った。鳥越が手帳を出して開いた。 「発見したのは?」 「列車が到着して五分くらいですから、六時五十五分くらいですか」 「乗客は一人もいなかったんですね」 「みんな降りられたあとでした」 「この乗客に見覚えは」 「はい、釧路から乗られたお客です。はじめは、この二番下にお坐りでした」 「向いの一番下席は?」 「その女性の連れの方がいらしたはずですが」 「見てはいないんですね」 「はい、ぼくが車内改札をしたときには、トイレに行っておられたようで」  女客の脱いだ衣類や、ハンドバッグは二番下席にあった。 「寝台を男のほうへ移ったようですね」  と手帳を開いている刑事が言った。 「一番の客は、男ですか」 「だと思います。たしか、ぼくが改札したとき、一番には黒いオーバーが二つに折って置いてあったと思います」  そこへ、三人の鑑識課員が入って来た。 「遅くなりました」 「ご苦労さんです。よろしくお願いします」  と猪原刑事が言った。竹内ら三人は少しむこうに移動した。四番席の窓のそばである。 「連れの男は、一度も見なかったんですか」 「はい。見なかったと思います。時刻が時刻ですから、お客さんはすぐにベッドに入り、カーテンを閉めてしまわれます」 「あの被害者の様子では情交があったと思われますが、気付かれなかった」 「はい、何度か見回りますが、気付きませんでした」 「目撃者もなかったわけだ」  と鳥越刑事が呟《つぶや》くように言った。 「すると、犯人は途中で降りた可能性もあるわけだ。竹内さん、一応、釧路からの停車駅を聞いておきましょうか」  それは、時刻表を見ればわかることだった。竹内はポケットから列車表を出した。 「釧路を出ますと白糠《しらぬか》です。音別《おんべつ》、浦幌《うらほろ》、池田、帯広《おびひろ》、新得《しんとく》、追分《おいわけ》、千歳《ちとせ》空港、そして終着札幌になります」 「ちょっと面倒な事件になりそうですな。連れの男がいたのに誰も見ていない」 「乗客は、みんな降りてしまっている。これはテレビで流して、情報を待つしかないな」  列車は、刑事と鑑識を乗せたまま移動した。     4  事件は、札幌西署で捜査することになった。その日、十四日に、『急行「まりも」殺人事件捜査本部』が設置された。  捜査主任は、道警から来た石渡《いしわたり》主任。あとは鶴見《つるみ》警部、猪原《いはら》警部補、鳥越《とりごえ》巡査部長、鹿内《しかうち》巡査長など、十六人の捜査員である。  捜査本部では、いまのところ、何もわかっていなかった。被害者は、三十歳前後の女性、死因はナイフによる心不全だろう。まだ、遺体は大学病院で解剖中であり、鑑識からの報告も入っていない。  テレビ局に事件の放送を依頼していた。午前十時のニュースの時間に流してくれるはずである。被害者は身元を知るようなものは、何も持っていなかった。  札幌の女性たちは働いている人が多い。働いている女性ならば、名刺とか身分証明書とか車の運転免許証など、持っているはずなのに、そのようなものは、何も持っていない。もともと持っていなかったのか、犯人が持ち去ったものか。  十時二十分、電話のベルが鳴った。鳥越刑事が受話器を把《と》った。 「さっき、テレビで見ました。お友だちのオチミチコさんではないかと思いますけど」 「あなたは?」  電話してきたのは、草加病院の娘|英子《えいこ》と言った。 「ミチコの家に電話してみたんですけど、誰も出ないんです」 「くわしいことは、そちらへうかがって、お聞きしたいと思いますので」  と言って電話を切った。猪原と鳥越が車で草加病院に向った。住いは病院の裏にある。英子が二人の刑事を出迎え、応接室に入れてくれた。英子は二十九歳、いまだ独身である。  英子は友だち二人と写った写真を見せてくれた。彼女が指さしたのが、越智倫子である。死んだ顔は表情が変る。死人の顔はテレビには出せない。たしかに被害者は、越智倫子だった。 「もう一人の方は」 「寺迫麻実《てらさこあさみ》です。あたしたち三人、高校のころからの仲よしでした」 「なるほど。でもニュースを見て、どうして越智倫子さんだと思われたんですか」  刑事は、これを聞くために、少し遠回りしたのだ。捜査は慎重でなければならないし、相手の心理も考えなければならない。英子は興奮していた。 「あたし、昨夜、倫子《みちこ》に電話したんです」 「何か用がおありだったんですか」  英子は少しむっとなった。 「すみません。慎重に捜査したいものですから。お宅から電話されたわけですね」 「四月に東京から友だちが帰ってくるので、何人かで集まろうということで」 「何時ごろ電話されたんですか」 「午後五時を少しすぎていたと思いますよ。ご主人がお出になって、倫子は釧路に遊びに行っている、と言いました。夜中の『まりも』で帰ってくると。それで、ニュースを見てピンと来たんです」 「なるほど」 「警察に電話するまえに、倫子の家に電話したら、誰も出ないんです」 「越智さんの家族は」 「倫子夫婦に子供が一人、小学二年とか」 「それだけですか」 「ええ。近所に倫子のお母さんがお住いですけど、きっとご主人は会社、子供は学校、それでニュースを見ていらっしゃらないのだと思います。殺されたのは倫子さんですか」 「そのようです。あとで確認のため、おいで願えますか」  鳥越は、越智剛の勤めている会社の電話番号を聞き、捜査本部に連絡した。 「越智倫子さんには、男の連れがあったようですが、何か思い当りませんか」 「倫子に男性ですか」 「お友だちなら、そういう話をされることもあるでしょう」  英子は黙った。 「他には洩《も》らしませんから、おっしゃって下さい」 「二年くらい前だったかしら。ヨシナガという名前は聞いたことがあります。倫子よりいくつか年上の人だったと思います」 「ヨシナガってどういう字でしょうか」 「さあ、吉永小百合の吉永じゃないかしら」 「吉永ですか、下のほうの名前は」 「さあ、思い出せないんですけど」  鳥越は、もう一人の寺迫麻実の連絡先も聞いてメモした。 「吉永さんって、札幌の人ですか」 「そうだと思いますけど」 「倫子さんとは、どういうご関係だったんでしょうか」 「それは吉永さんにお聞き下さい」 「倫子さんは、男性とのそのようなおつき合いを、よくなさる方だったんでしょうか」 「そんなの、倫子のプライバシーでしょう」 「これは殺人事件なんです。マスコミには発表しません」 「嫌いじゃなかったんじゃないですか」  英子に、署まで一緒に来てもらうように頼み、彼女は着換えるために応接室を出ていった。 「猪原さん、これは痴情のもつれですかね」  猪原は三十一歳、鳥越は三十七歳になる。若くても猪原のほうがランクは一つ上である。 「鳥さん、被害者は男好きだったようだね」 「北海道の女はみんな男が好きですからね。男に弱いというのかな」 「寝台車の中で殺す、これは簡単にはいかんな、計画的だ」 「あんないい女を、もったいないですね。まだ若いのに。きれいだったですよ」  英子を連れて西署にもどると、解剖を終った遺体はもどされていたし、地下の霊安室の遺体のそばには、倫子の夫越智剛、子供、倫子の母親が来ていた。  捜査本部に、刑事たちが集った。解剖検案書と、鑑識の報告書が届いていた。二つを総合して、わかったことが報告された。  ㈰死亡推定時刻は、十四日の一時三十分から三時三十分の間の二時間、これは解剖の結果で、鑑識では二時から三時までの一時間と出している。  ㈪被害者、越智倫子には情交のあとがあった。体内にあった精液の血液型はO型、なお倫子の血液型はB型である。  ㈫指紋は多数検出された。  ㈬陰毛が二種類採取されている。女の陰毛の血液型はB型、これは倫子本人のものと思われる。男の陰毛はA型。  男と女の陰毛は簡単に識別できる。男の陰毛の断面は長方形であり、女の陰毛は三角形に近い。  証拠品は、  ㈰ナイフ。刃渡り十センチ、柄の長さ十センチ、市販の登山ナイフである。  ㈪被害者の首の下にあったアルミニューム製のオモチャ、丸い黄色い塗りのワッペン。俗にスマイルバッジという。裏には安全ピンがついていて、胸などに付ける。  死因については、ナイフによる刺創が原因である。解剖によってその傷の深さや長さが記されている。ナイフは心臓を直撃していた。ほとんど即死だったと思われる。  被害者の胸にナイフは刃を上にして刺っていた。肋骨《ろつこつ》を一本切断していた。ナイフが垂直に刺っていた、ということは、犯人は被害者に馬乗になり、ナイフを逆手に持って刺したということになる。  鶴見警部は、ビニールに入ったナイフを逆手に持って振り上げた。逆手に持つと、刃は上になる。このとき犯人は被害者の口を左手で押えていたのではないか。  被害者は肌をあらわにしていた。眠っていたとすれば、少くとも浴衣の前くらいは合わせていただろう。いかに列車の中がエアコンがきいていたとしても、体に毛布は掛けていた。  情交中に男は女の胸を刺したのではないかと問題になったが、これは無理だろうということになった。交っていて女にショックを与えれば膣痙攣《ちつけいれん》ということになる。すると、犯人は作業が更に多くなる。  いろいろと推測がなされたが、問題は次の捜査会議まで持ち越された。  まず、被害者の身辺を洗うことが第一である。被害者の夫越智剛に、倫子が誰と釧路に行ったのかと聞いたが、答えられなかった。  そのころ釧路署から電話が入った。釧路署に、十三日の午後十時ころ、釧路駅で越智倫子に会ったという女が電話して来たという。その女の名前は、野村陽子と名乗った。旧姓、橋立陽子である。被害者とは高校時代に友だちだった。  鹿内と猪原が釧路に行くことになった。鶴見と鳥越は、草加英子と越智倫子のもう一人の友だち寺迫麻実に会うために署を出た。     5  三月十六日、木曜日——。  多門|烈《たけし》は、渋谷・宇田川町のビルの五階にあるバア『ピニヨン』のカウンターで、バーボンの水割りをのんでいた。二十七歳になる。スポーツが万能、特に合気道をやっていた。気で相手を倒すという術である。もちろん、これには体力も腕力もいらない。体がたくましいのは、高校時代にラグビーをやっていたからだろう。  いまは司法浪人である。父の知人の法律事務所で働いている。司法試験をめざしているが、すでに四回落ちている。試験に合格するというのは運みたいなところがある。運がなければ勉強だけしてもどうにもならないのだ。  落ち込んだり、考え込んだりするタイプではないが、生きていく方針を変えようか、と思いはじめている。何も検事にこだわることはない。税理士の資格でも取ろうか、と思うが、税理士だってそう簡単には資格はとれない。このごろは、男が生きていく道のけわしさを考えはじめていた。  二十七歳、中途半端な歳である。サラリーマンになるのはいやだった。 「来ていたの」  と言って左側の椅子に、西方有里子《にしかたゆりこ》が坐った。烈は、おや、というように有里子を見た。 「何か」 「いや、この間はごめん」 「用があったんだから、仕方ないでしょう」  その言い方が、烈は少し気になった。それを追及するのは、何か悪いことのような気がした。ここ二週間ほど会わなかった。先週会うつもりだったが、用ができて会えなかった。  ここ二週の間に、有里子に何かあったようだ。好きであれば、その変化に気付く。もっとも何があったのかはわからない。 「良彦兄さん、来るそうよ」 「ああ」  そのことは電話で聞いていた。  烈は、有里子がその気ならば、結婚してもいいと思っている。その話が出るにしても、司法試験に合格したあとのことだ。有里子も弁護士をめざして勉強している。あるいは有里子が先に司法試験を通ってしまうかもしれない。そうなれば、二人の関係は違ったものになるだろう。 「どう、忙しい?」  意味のない声をかけた。 「ええ、まあまあよ」  有里子も意味のない言葉を返した。いつもとは違う妙な空気が二人の間には流れている。有里子が烈を拒んでいるのだ。空気は強張《こわば》っている。  そこへ、草加良彦がドアから入って来た。 「やあ、お揃いだね」 「この間は、すまなかった」  良彦は烈の右側の席に坐った。そして、折り畳んだ新聞を烈の前に投げだした。 「何だこれは」 「読んでみてくれ」  新聞の記事の部分を、ピンクのラインマーカーで囲んであった。新聞は『北海道毎日』だった。 「おれは、北海道毎日を直接送ってもらっている。もっとも一日遅れだけどね」  烈は新聞を開いた。記事には、 『急行「まりも」の中で人妻殺さる』  という見出しがあった。  釧路から『まりも』に乗り込んだ越智剛の妻|倫子《みちこ》が、左胸にナイフを刺されて死んでいた。そういう記事である。 「この事件が、どうしたんだい」 「その越智倫子というのは、おれの姉の友だちでね、おれも札幌の家で何度か会っている。その事件を多門に調べて欲しいんだ」 「なぜ調べる?」 「たいした理由はない。面白いんじゃないかと思ってな。多門だって、事務所の仕事だけではつまらんだろう。どうだ、息抜きにやってみないか。もちろん、おれが調査費、日当も持つ。おまえにとっても無駄じゃない、と思うんだけどな。面白そうな事件だろう」  烈は、有里子のほうへ目をやった。彼女はバーボンの水割りをのんでいた。 「面白い? だったら、自分でやればいいじゃないか」 「おれは、学校を休めないんでな」 「この越智倫子と、おまえは、何か関係あるのか」 「直接にはない。おれが中学のころ、彼女は姉のところへよく遊びに来ていた。それだけだ」 「断わったら」 「引き受けてくれないかな、姉の英子にも関りのあることかもしれない」  烈は、良彦の顔を見た。良彦は何かを隠している。そんな顔だった。遊びで、殺人事件を調査させたいわけではないだろう。いま、良彦の腹の中にあるのは何なのだ。 「引き受けよう」 「ほんとか、助かる。いやよかった」  良彦は、ほっとした顔になった。彼はポケットから厚い封筒を取り出した。文庫本を二冊重ねたような厚さだ。 「ここに二百万入っている。百万はおまえの日当、百万は調査費と思ってくれ。足りなければ、また補充する」 「そんなに長びく事件か」 「その辺はおれにはわからん。すぐに片付くかもしれないし、何ヵ月もかかるかもしれない。とりあえず、金はあったほうが動きやすい。すぐ取りかかってくれ」 「先生に相談してみなければわからん。時間がとれるようだったら、明日にも札幌に行けるだろう」 「たのむよ。それじゃ」 「もう帰るのか」 「お二人さんにとって、おれは邪魔だろうからな、それに人に会う用もある」  良彦は椅子を立って、有里子の肩をポンと叩いた。 「うまくやれよ」  彼は手を上げて店を出ていく。有里子は新聞を読んでいた。記事には写真も載っていた。なかなかいい顔をしている。もっとも新聞の写真じゃ、ほんとのところはわからない。二十九歳だとある。  多門自身も、高校のころ、休みのときに札幌に行き、良彦の家に泊めてもらった。姉の英子にも、何度か会っている。品がよくてきれいな女だが、どこか気の強そうなところがあり、烈はあまりいい印象を持っていない。 「引き受けるの」 「もう、引き受けてしまった」  おそらく良彦には何か理由があるのだろう。ただ事件に興味を持ったということではない。もしかしたら越智倫子とずっと関係を持っていたのかもしれない。だから調査したくなったのだ。どのように関りを持っているかに烈は興味を持ったのだ。  新聞記事によると�痴情のもつれ�とある。新聞の倫子は、そんな顔をしている。 「人に会う用があると言った」 「ええ、女性でしょう。人に会う用って、それ以外に考えられないわ」 「いま、何人くらいいるんだろう」 「そんなこと知らないわ」  越智倫子は二十九歳の人妻。顔つきからして、人妻として収まっている女ではない。烈は、倫子と良彦を結びつけてみた。良彦は倫子に誘われるとその気になるだろうか。良彦はよく札幌に帰っている。金さえあれば、東京と札幌は近いのだ。 「ねえ、あたしにも手伝わせてくれない」 「えっ?」  と有里子の顔を見た。 「あたしの事務所、いまはヒマなの。興味あるの、その事件」 「殺人事件だよ」 「ねえ、一緒に札幌に連れてって!」  もちろん、烈より有里子のほうが、札幌はくわしい。夏休みや冬休みには、よく札幌に行っていたという。草加家は彼女の母の実家でもあるのだ。札幌を足がかりにして、北海道のあちこちを回ったこともあるらしい。 「烈さんと一緒に旅行したいのよ。これまで一度だって旅行したことないんだもの」  甘えるように言った。 「でも、お母さんやお父さんが」 「烈さんと一緒だってこと言わなければいいんでしょう。あたしは叔父さんの所に遊びにいくの」  さっきまでの、妙に白けた感じとは違って来ていた。酒の酔いもあるのだろう。 「あたしが、札幌を案内するわ」 「それもいいかもしれないな」 「うれしい」  と肩をすり寄せてきた。彼女の気持はさっきまでと違って来ている。女というのは、ころころと気分を変える。いまさらのことではない。 「出ようか」  と烈が言った。有里子はちょっと狼狽《ろうばい》の色を見せた。金を払って店を出る。そしてエレベーターで一階に降りる。少し歩いてタクシーを拾った。 「目黒!」  と烈が言った。目黒のラブホテルである。烈だって男である。欲望がないわけではない。会えば有里子を抱きたくなる。これまでそうして来た。むしろ誘わないほうがおかしい。当然、彼女もその気になっているはずである。     6  翌十七日、金曜日——。  多門|烈《たけし》は、羽田から札幌行きの飛行機に乗った。事務所から一週間の休みをもらった。間に休みや祭日があるので、合わせて十一日になる。事務所は忙しいとき以外は土曜日も休みである。  有里子に連絡をとってみたが、一緒には行けない、あとから追いかける、と言った。彼女の事務所の都合もある。  禁煙のランプが消え、烈はキャスターに火をつけた。三月と言っても札幌はまだ冬である。もちろん、その仕度《したく》はして来た、と言っても、ボストンバッグ一つである。  昨夜の有里子を思い出す。彼の腕の中で悶えたが、やはり彼女はどこかぎこちなかった。烈は合気道をやっている。だから人の心の動きはわかる。動きはわかるが、その内容まではわからない。いつもやっていることなのに、妙に羞《は》ずかしがったりした。  千歳空港に降り立った。今年は例年に比べて雪が少ないという。それでもやはり寒かった。東京も寒かったり暖かったりだが、寒いといっても東京とは異なる。肌に染み込むような寒さである。空港から千歳空港駅に向う。その通路はガラス張りのトンネルのようになっていて、風は吹き込まないが、駅に着くと急に冷えて来た。空港駅から千歳線の電車に乗って札幌に向う。  札幌に着くと、まず駅近くの『札幌パークホテル』にチェックインした。部屋は六○四号室。時計を見ると午後五時を十分ほど過ぎていた。すぐに草加家に電話して、英子を呼び出してもらった。 「多門烈です」 「あら、いまどちらなの」 「駅前のパークホテルです」 「どうしてこちらに」 「良彦くんに頼まれたものですから。『まりも』殺人事件です」 「どうして?」 「わかりません。とにかく調べてくれということで札幌まで来ました」 「そう」  と英子はしばらく考えていたようだった。 「どう、家にいらっしゃらない」 「いずれは、うかがうことになると思いますが」  越智倫子の家の電話番号を聞いた。まず、夫の剛に会ってみたかったのだ。 「そう、じゃ、あたしのほうからホテルにうかがうわ、何時ごろがいいかしら」  うまく越智剛に会えるかどうかわからない。 「午後七時でどうでしょうか」 「わかったわ。多門さんとは、もう何年も会っていないわね。大人になったんでしょうね」  英子と会ったのは高校生のころだ。もう十年近くになる。  一度、電話を切って、越智家に電話を入れてみた。電話はすぐにつながった。 「剛さんはまだ帰っていませんが、どちらさまでしょう」  倫子の母親らしい。名前とホテルを告げ、お帰りになったら、電話をいただきたい、と言って電話を切った。烈はとりあえず、シャワーを浴びた。越智剛に会ってから、札幌西署に行きたかった。まだ、事件のことは新聞記事以外のことはわかっていない。資料がないのに、いろいろと推測してみてもはじまらないのだ。  湯上りにビールをのんでいるところに電話のベルが鳴った。受話器を把《と》る。交換が越智さまからです、という。つないでもらった。 「越智です。電話をいただいたそうですが」  烈は、奥さんの事件を調べることになった、と言った。誰から、どうして、と聞きたかったのだろうが、越智は少し考えて、 「それでは、私がホテルのほうへうかがいます」  と言った。もちろん、烈にはそのほうが有難い。住居はわかりにくいところにあるらしい。くどくどと道順を喋《しやべ》るのは面倒だと思ったのだろう。札幌はそれほど広くない。タクシーをとばせば、すぐに着くのだろう。お待ちしています、と言って電話を切った。  烈は、すぐに部屋を出られるように仕度してから、残りのビールをのんだ。六時少し前に、また電話が鳴った。フロントに越智剛が来ているという。電話を置いて部屋を出た。一階に降りると、フロントの前にわりに小柄な男が立っていた。百六十二、三センチくらいか、体の細い男である。三十五、六歳だろう。 「わざわざおいでいただいて申しわけありません」  と烈は頭を下げた。越智を喫茶室に案内し珈琲を二つ、とたのみ、それから名刺を交換した。 「どういうことなのでしょうか」  と越智は言った。 「ぼくは、草加良彦くんの友だちなんです」 「ああ、草加病院の」 「実は、良彦にこの事件を調べてみないか、と頼まれましてね」 「どうしてです、いやその良彦さんが、妻の事件を」 「いまはわかりません。ただの興味だけかもしれません。奥さんは、良彦の姉さんのお友だちだそうですから」 「はあ、そういうことですか」  越智は、わかったようなわからないような半端な表情を作った。 「ぼくが、越智さんにお会いしたかったのは、この事件の依頼者になってもらいたいということです。そのほうが動きやすいと思いますので」 「でも……しかし」 「いえ、調査費とかぼくの日当は、良彦から出ているんです。ですから越智さんに金銭的なご迷惑は一切おかけいたしません。越智さんも、奥さんが、なぜ、誰にあのようにされたのか、お知りになりたいと思いますが」 「ええ、まあ、そうですが」 「犯人をお知りになりたいでしょう。もちろん、ぼくは警察ではありませんので、犯人を捕えたりはしません。ただ事件を知りたいだけなんです」 「そういうことでしたら、よろしくお願いいたします」  と彼は頭を下げた。 「わたしは、何をすればよろしいのですか」 「何もなさることはありません。ただ、事件の調査を依頼したかどうか、警察から問い合わせがあるかもしれません。そのときにはぼくの名前を出していただければ、それだけでいいんです」 「どうぞ、倫子を殺した犯人をつきとめて下さい」  烈は運ばれて来た珈琲をのんだ。このところは珈琲もブラックでのむようにしている。 「それで、越智さん、奥さんがあのようになるについては、何か思い当ることはありませんか」 「そのことは、警察でも執拗《しつよう》に聞かれました。倫子は人に恨まれるようなところはなかったはずですし。もちろん、わたしのアリバイも聞かれました。わたしに、倫子を殺す動機などありません。いい妻でした」 「男の人から、あるいは男ではないかもしれませんが、電話がかかったようなことは」 「ありました。十二日、日曜でした。直接、倫子が電話に出たものですから、男か女かはわかりませんが。このことは警察でも話しましたが」 「もう一度、お願いします。できるだけ情報は集めておきたいんです」 「はい。電話が終ったあと、倫子がわたしに、明日、釧路に行ってもいいか、と聞きました。高校のときの友だちに会いたいのだと。わたしは、行っておいでと言いました」 「そのときの奥さんの感じで、電話して来たのは、男だと思いましたか、女だと思いましたか」 「おそらく、男だろうと思います」 「誰からの電話かは、お聞きにならなかったんですか」 「聞きませんでした」 「男からだろうと思いながら、黙ってお許しになった?」 「聞いても、何も言わなかったと思いますし」 「その男とは、札幌で会われたんでしょうか」 「さあ、釧路で待ち合わせたんじゃないでしょうか」 「だとすれば、待ち合わせの時刻とか場所とか、何かお聞きになりませんでしたか。もしかしたらメモするとか」 「黙って、はい、はい、と聞いていたようです。わりにもの覚えはいいほうでしたから、メモしなくてもわかったんでしょう。行きは特急『おおぞら1号』、帰りは十三日の急行『まりも』だ、とはっきり言っていきました。そういうところははっきりしている女でした」 「こんなことは、今度がはじめてですか、外泊されるとか、夜遅く帰られるとか」  越智は、言いにくそうにしていたが、これまで何度かあったと言った。 「家はちゃんとやってくれていましたし、いつものことではないし、ときには遊びに出してやらなければ、と思い、何も言わず外出させました」  もちろん、越智は妻が何をするために外出するのかは知っていたはずだ。そういうことで妻ともめるのはいやだったのだろう。気の弱そうな男である。たとえ妻が浮気するために外出するということを知っていても、それを拒めなかった。  妻が不倫してもそれを咎《とが》めない。寛大なのではなく、小心なのだろう。だが、烈には、この越智という男がよくわからない。小心で臆病な男ほど、嫉妬心が強く、妻を殴ったりするものだ。烈が知っている男たちは、みなそうだと思っている。不倫の妻を咎めないで許す男なんて考えられない。 「これまでに奥さんがつき合っていた男に、何か思い当りませんか。たとえば家計簿とか日記とか、そういうものに」 「そんなものは付けていませんでした」 「アドレス帳くらいはあるでしょう。手紙とかはがきとか、奥さんが大事にしていらっしゃったような」 「手紙類は、警察が持っていきました。でもそんなものは残っていなかったと思います。もちろん、倫子が度々出かけるというのなら、わたしも注意したと思います。でも、多くて年に二、三回というくらいで。同窓会とか友だちと集るとかいうのは、出先も会う相手もわかっていましたし、もちろん妻にも息ぬきする権利みたいなものはあると思いますので」  東京あたりには、これほどできた男はいない。妻が同窓会に出ると言っても、渋い顔をする男は多いのだ。妻の背後に男の影でも見えれば、とことん追及する。そして外出を禁止してしまう。会社に出ても、二時間毎くらいに家に電話したりするとかいう男が多い。  喫茶室の中から、ホテルのフロントが見える。そのフロントに背の高い女が歩み寄る。フロントマンが烈のほうを指さした。女はこちらへ向って歩いてくる。まだ体の線は二十五、六にしか見えないが、その女は草加英子だった。烈の記憶にはちゃんとあったのだ。  烈は椅子を立った。英子はまっすぐに烈に向って歩いてくる。越智も振りむき、席を立った。 「これは、草加さん」  英子は越智に会釈し、烈に、 「あなた、多門さん?」 「どうも、しばらくです」 「まあ、立派になって」  と英子は目を見張った。越智が、 「あの、わたしは、もう失礼していいでしょうか」  と言った。 「どうも、わざわざおいでいただいて、すみませんでした」 「よろしくお願いします。何かございましたら、電話下さい」  越智は、烈と英子に頭を下げて喫茶室を出ていく。事件以後、英子は越智に会い、すでにくやみを言い、倫子の葬式にも出たのかもしれない。 「そう。もう、十年以上経っているのね。あのころは、まだ子供だったのに」  二十九歳、英子も十二年前はまだ若かった。もちろんこれだけ若くきれいにしていられるのには、それだけの金がかかっているのだろう。 「多門さん、外に出ない? あたしが案内するわ」 「お供します。部屋にコートを置いてきているので」 「じゃ、あたしは、ホテルの前のタクシーの中で待っているわ」  と言って、英子は先に出ていった。  二章 黒いコートの男     1  明治四十年、札幌に来た石川啄木は、次のように書いている。 「札幌は大いなる田舎なり、木立の都なり、しめやかなる恋の多くありそうなる都なり。路幅広く、人少なく、木は茂りて蔭をなし、人は皆ゆるやかに歩めり。アカシアの街樹を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷めたさ……」  もちろん、いまはこのような風情はない。北海道第一の百五十万都会である。車が連なってゆるやかに走る。雪は路端に掻《か》き寄せられ積み上げられて、車の走る道、人の歩く道幅は半分になっている。  タクシーはホテルの前から、狸《たぬき》小路に着いた。外へ出ると身ぶるいが出るほど寒い。狸小路は、東西一キロ、アーケード街になっている。もちろん車は入れない。この小路には雪がない。もう一つ雪のない道は地下道である。  この狸小路には小さな呑み屋が並んでいて、男たちを欺《だま》し化《ば》かす白化粧の女たちがいた。それが狸小路の名のおこりである。狐《きつね》小路でないところがいい。狸は陽気である。もっともキタキツネは、スリムで毛なみがよく美しい。男たちにとっては狸より狐のほうが魅力あるのかもしれないが。  狸小路の中にあるロシア料理の店『コーシカ』のカウンターに、多門烈と草加英子は並んでいた。アララトというロシアの酒を頼んだ。店の中には若い学生のような客が多い。学生が呑めるのだから、料金は安いのだろう。照明は明るくも暗くもない。東京にはないタイプの店である。  英子はかなり酒が強いらしい。 「あたし、多門さんを期待していたの」  烈をまぶしそうな目で見る。 「期待以上だったわ。でも好きな女の子いるんでしょう」 「います」 「あっさり言うわね。そんなところが男っぽいというのかしら、東京には良彦のような男ばかりと思っていた」 「英子さんは、まだ独身と聞きましたけど」 「あなたのような男がいては、結婚できないわね。もっとも結婚してから遊ぶという手もあるけど」 「結婚しないんですか」 「結婚の話ないわけじゃないの。もしかしたら、この秋くらいにはするかもしれない。相手は病院の医者だけど。父は良彦だけでは頼りないみたいなの。それであたしに医者をくっつけたいのね」 「今年の秋ですか、おめでとうございます」 「いやよ、そんなの。あなたにこんなこと言うんじゃなかった。多門さん、遊べる人なんでしょう」 「ええ、英子さんのような女性ならば」 「そう、うれしいわ。あたし、コチコチの男は駄目なの」 「越智倫子さん、遊ぶ女性だったんですか」 「遊ばない女よ」 「え? でも」 「遊んだとしても倫子なんて、おとなしいものよ。あたしや麻実に比べたら」 「麻実って、寺迫さんですか」 「あなたには、麻実は紹介したくないわ」 「でも、会いますよ、お聞きしたいこともあるので」 「あなた、倫子の事件を調べに来たんだったわね」 「ええ、良彦くんに頼まれて」 「良彦、どうしてこんな事件に興味を持ったのかしら」 「ぼくに仕事をくれたかったんじゃないですか。ぼくは浪人みたいなものですから。資格がないというのは、みじめなものです」 「そう、検事のタマゴだったわね」 「ヒヨコにならないタマゴかもしれない」  アララトからウオッカに変えた。ウオッカを炭酸で割ってのむ。ストレートでは強すぎるのだ。 「今夜は、おいしくお酒がのめるわ。ねえ酔ってもいいでしょう」 「酔わないで下さい。酔った女性のあつかい方を知りませんから」 「あなたの恋人、お酒のまないの」 「のみますけど、酔いつぶれたりはしません」 「あたしも自分がわからないほどにはのまないわ。可愛いくなるくらいの酒よ。でも、いい男の前ではいい女でいたいわ」 「倫子さんは、釧路で男と一緒だったと」 「一緒に『まりも』に乗ったみたい。でも誰も男の顔は見ていないの。釧路に野村陽子という女がいるの。旧姓橋立、あたしたちの同級生。この陽子が、釧路駅で偶然、倫子に会ったらしいの。事件のニュースを見て、釧路警察署に届け出たんだって」 「なるほど、いい情報ですね」 「あたしだって、あなたのお役に立ちたいもの。もちろん、多門さんのお役に立つために陽子に電話したんじゃないけど」 「その橋立さんに電話したんですか」 「札幌西署でも、陽子に会いに行ったはずよ」 「それで」 「倫子は、待合室の椅子に坐っていたそうよ。一人で」 「一人でですか?」 「ええ一人で。でも、陽子が倫子の前に立ったとき、視界で、黒いコートを着た男がスーッと移動したんだって。つまり、その男は倫子の斜め後の壁のところに立って煙草を吸っていたの。陽子が倫子に声をかけたとき、倫子は、ちょうどその男を振り向いていたの。そこに陽子が声をかけたものだから、倫子はびっくりしたらしいのね。陽子は言っていた。倫子は体の芯《しん》が抜けたみたいだったって」 「体の芯が抜けたって?」 「男に抱かれたあとで、とろんとしていたのよ。それもとことん楽しんだあとみたいだったって。女って、そういうのはなんとなくわかるのよね。陽子は倫子を改札口まで見送ったの、そして倫子の腰のあたりを見たの」 「なるほど、それが体から芯が抜けたっていうんですか、何となくわかるな」 「そして、また列車の中でもあったということだから、かなり強い男ね。倫子だってそのほうはかなり強いほうだから」 「でも、あなたは、さっき倫子さんはまだまじめなほうだって」 「倫子くらいだったら、札幌じゃいいほうよ。一年に何回くらいだから。札幌の女って男好きなのかしら、麻実なんか、しょっちゅう男を取り換えているわ」 「でも、倫子さんは不倫ではないですか、さっき越智さんに会って、そのことが不思議だったんですけど」 「札幌じゃ不倫なんて言わないわ。そりゃまじめで男は亭主だけでいい、という女もいるかもしれないけど、亭主がいたって、いつも女は男を探しているの。そうね、東京の人にはわからないことらしいけど。サッチョン族という男たちがいるでしょう。札幌に単身|赴任《ふにん》して来ているサラリーマンよ。サッチョン族で、女に不自由している男、いないんじゃないかしら」 「少しわかって来ました」 「どういうのかしら、北海道の女って、男に隷属《れいぞく》するのいやなのね。自立心が強いというのかしら。だからほとんどの女は働いている。男にくっついて生きていくのって、いやなのだと思う。だから、男が意気地ないと、すぐに離婚ね。札幌は離婚率の一番高いとこなの」 「女も主張するんですか」 「そうよ。倫子なんかおとなしいほうなの。だから越智さんも安心していたんじゃないかしら。倫子は男を好きになっても、のめり込んだりはしなかったの。家族を大事にしていたから」 「寺迫麻実《てらさこあさみ》さんはそうじゃない?」 「会ってみればわかるわ。もちろん、ご主人も諦めているらしいけど。札幌の男って、わりに諦めてしまうのね。諦めないと、家庭はすぐにこわれてしまう」 「なるほど、越智さんなんか、まだいいほうだったと?」 「そうよ、倖せな男よ」 「まいったな。まるで札幌の人って、人間じゃないみたい」 「そんなこと言っては失礼よ。自立心が強いって言って欲しいわ」 「すみません。言いすぎでした。札幌の女性は自立心が強いのです。良彦くんの女好きも、やっぱり札幌人体質ですかね」 「あれは、特別よ。甘やかされて育ったし、女が好きと言うんじゃない。女好きだったら、もっと女を大事にあつかうはずよ。飽きたら、オモチャでも捨てるように、女をポイと捨てるんだから。もっとも捨てられても痛まない女たちを拾っているんだから、その点はいいんだけど。良彦の女遊びはただの趣味なのよ。いつも楽しむのはフィフティフィフティだと言っているから。もちろん、あたしだって知っている。女は男より三倍たのしむ。そして男は女に比べて三倍疲れる。倫子なんか、男の五倍くらいたのしむんじゃないかしら」 「容疑者はまだ出ていないのかな。その釧路駅での黒いコートの男」 「陽子もちらりと見ただけらしいから、モンタージュまでは作れないんじゃないかしら」 「やっぱり、その男が犯人ですか」 「陽子が、倫子の連れだ、と思っただけで、そうじゃないかもしれないけど」 「同じ列車に乗るのに、待合室で離れていたというのは、やはり不倫を隠そうとしていたということですか、誰かに見られるかもしれないと」 「倫子は、そんなこと平気だったはずだけど」 「すると、男のほうが倫子さんとの関係を人に知られたくなかった」 「そういうことになるわね。はじめから倫子を殺すつもりで近づいたとすれば、やはり、離れていた、ということになるんじゃないかしら」 「いま、警察では、その男を追っているということですか」 「そうかもしれないわ。捜査本部の動きは知らないけど」 「その黒いコートの男は、誰ですかね」  倫子は、釧路駅で、体の芯を失っていた。長い時間、男とベッドを共にしていた。それはどこだろう。考えられるのは、ホテルの一室である。もしかしたら、行きの特急『おおぞら1号』では、倫子は一人だった。男は釧路のホテルで倫子が来るのを待っていた。それとも釧路に住いのある男か。  釧路に住んでいる男ではないような気がする。二人は釧路から札幌行きの急行『まりも』に乗っている。釧路の男なら一緒に『まりも』には乗らないだろう。同じ札幌の男なのか。札幌ではデートはできない。男の立場がそうだからというのではない。はじめから殺すつもりなら、できるだけ倫子と一緒にいるところを人に見られたくないだろう。現に倫子は高校の友だち橋立陽子に会っている。  男と倫子は、釧路で別れてもよかった。お互いに体は満足していたはずだから。男も『まりも』に乗ったということは、倫子を殺すためだったということになる。 「あたし、今夜は帰るわ」  と英子が言った。酔いがまわって来たらしい。 「調子に乗りすぎてのんだみたい。あなたに醜態は見せたくない」 「そうですか、残念ですが」  と烈は言った。ほんとのところはホッとしたのだ。     2  翌十八日、土曜日——。  多門烈はホテルを出て、札幌西警察署に向った。西署は札幌市街のほぼ中央にある。署の玄関を入り、受付の婦警に、捜査本部の人に会いたい、と名刺をさし出した。婦警は奥に入って刑事を呼んで来た。その刑事は鶴見と名のった。 「多門烈さん? 何のご用ですか」 「実は、越智倫子さんの事件を調べているんですけど」  鶴見は眉をひそめた。どうぞ、と言って奥へ誘った。刑事室だろう。広い部屋である。 「素人の方に顔をつっ込まれると困るんですが。東京からおいでになったのですか」 「はい。依頼人は越智剛さんです。どうしても妻を殺した犯人を探したい、とおっしゃって」 「何をお聞きになりたいんですか」 「捜査本部でわかっていることだけでも」  鶴見は、ふーむと、鼻で息をした。あまり機嫌はよくないらしい。部屋の中は暖房はあるが、妙に広く寒々としていた。鶴見は、オーイと手をあげた。三十七、八とみえる刑事が歩いて来た。 「鳥さん、ちょっとこの人の相手をしてくれ」  と言って古いソファを立ち上がった。刑事室の隅にソファが二つとテーブルが置かれ、そばでダルマストーブが燃えていた。古い建物である。  鳥さんと言われた刑事は、烈の前に坐った。鶴見刑事はむこうで電話をしている。烈の身元を確めているのだろう。 「『まりも』の殺人事件を調べているんです。越智剛さんの依頼で」 「それは大変ですな。捜査本部でもまだたいしたことはわかっておらんのですよ」 「わかっていることだけでけっこうなんです。事件をみんな頭の中に入れて、分析してみたいんです」  鶴見が、烈の名刺を持って来て、鳥さんに渡した。東京の法律事務所は土曜は休みだが、電話連絡のため誰かは出て来ている。鳥さんはその名刺を見て、 「多門烈さん? ぼくは鳥越です」  と言った。 「札幌は、はじめてですか」 「いいえ、以前に二、三度来ています」 「そうですか、それでは簡単に」  と言って、ポケットの手帳を出して開いた。 「法律事務所ですか、将来は弁護士にでも」 「いえ、検事のタマゴです」 「すると、近いうちにヒヨコに」 「いいえ、ヒヨコにならず腐ってしまうかもしれません」 「なるほど、ヒヨコにはならないタマゴね。でもタマゴというのは、いろんな可能性を持っていますからね。育てば鶴か鷹《たか》か鷲《わし》か、わたしは、刑事のニワトリですからね。鶴や鷹にはなれない。いまの巡査部長のまま、停年ということになるかもしれない。いや、これはよけいなことでした」  鳥越は笑って手帳に目を落した。 「いいですか、被害者は越智倫子、二十九歳。殺害場所は急行『まりも』二号車、一番下座席、死因はナイフによる心不全、つまりナイフは心臓を破っていた。正確に心臓を貫いたようですな。心臓の場所なんてものは素人にはよくわからないものですが。被害者は肌をさらしていました。情交のあとがありました。精液の血液型はO型。男と女の陰毛が出て来たのですが、女の陰毛はB型、男の陰毛はA型でした。この辺がちょっとわからないのですが。死亡推定時間は、十四日の午前二時から三時までの間、そんなところですか」  烈は、それを手帳にメモした。 「殺人には精神異常者以外は動機があるはずです。釧路で被害者は男と一緒だったようですが、その男がどこの誰だかわかりません。いま被害者の身辺を洗っているんですが。釧路駅で被害者に会った女性の話では、連れかどうかわからないが、黒いオーバーを着た背の高い男だということです。身長百七十五センチくらいということですが、われわれはこの男を事件のカギを握る男として追っているんです。その女性が、男の顔でも見ていればよかったんですが。被害者はきれいな女性でした。殺すにはもったいない。いや、刑事が口にすることではありませんが。凶器のナイフですが、刃渡り十センチ、柄十センチ、登山ナイフということだが」  と鳥越は、ナイフの形を図に描いて見せた。 「このナイフからは、指紋は出ませんでした。刺しておいて拭《ぬぐ》ったんでしょうな。はじめは身元がわからなくて困りまして、テレビのニュースで流してもらってわかったようなわけで」 「いまの捜査の進展はどうなんですか」 「捜査秘密ということもありますが、たいしたものは出とらんのですよ。被害者が以前つき合っていた男というのがいました。吉永|圭一郎《けいいちろう》、四十歳ですが、もう一人は被害者の夫越智剛、あなたの調査依頼者ですね。この二人とも、アリバイがはっきりせんのですよ。それに越智には女がいました」 「越智さんに女ですか」 「ええ、彼の勤務先は、北斗《ほくと》商事、彼は販売部の課長補ということですが、女はこの会社のOLです。越智さんからお聞きにならなかった?」 「はい。はじめて聞きます」 「離婚話のもつれ、というのがあればいいんですが、越智家はわりにうまくいっていましてね、殺しの動機がない。女は渡辺|友紀《ゆうき》、二十五歳です。ただの遊びの仲ということのようですね。吉永圭一郎のほうは、ここ二年ばかりは被害者には接触していません。この男にも被害者を殺す動機はいまのところみつかっていません。釧路にいた男と、二人は見た感じが違いますからね。二人とも百六十二、三センチ、第一、背丈が違いすぎる。だいたいこれくらいですね」 「どうも、いろいろと教えていただいて」 「どこにお泊りですか」 「駅前のパークホテルです。しばらくは泊っていると思います」 「近いうちにいっぱいやりましょう。札幌はわたしが案内しますよ」  烈は、ソファを立って頭を下げた。西署を出て冷めたい風の吹く中を歩く。雪は降っていないし、薄日はさしていた。  札幌駅からまっすぐにのびている通りである。ススキノの方向はわかっている。大通りへ出る。二月にはここで雪祭りが行われたのだ。さまざまな雪像が並び、観光客を呼んだとテレビで見た。もちろん雪像はとうにこわされている。寒いので地下に入った。地下鉄南線が走っている。なるほど、人の往来は地下が多い。地上ほどは寒くないのだ。途中、喫茶店をみつけて入り、珈琲をたのんだ。椅子に坐ってホッとなる。  鳥越というのは親切な刑事だった。もちろん民間人が事件に入り込むのを警察は嫌う。建て前は民間人は事件にタッチさせないことになっている。だが、捜査本部は民間から情報をもらわないと事件は解決できないのだ。  運ばれて来た珈琲をブラックのままのむ。ミルクはそのまま口の中に放り込んだ。  昨夜の英子を思い浮かべた。はじめは烈をベッドに誘うつもりだった。だが調子にのってのみすぎた。やはり矜《ほこ》りの高い女だったのだろう。自分で帰ると言い出した。酔って烈に抱かれたくはなかったのだろう。  立って、レジのそばにある赤電話に向った。英子の友だち、寺迫麻実はススキノでブティックを開いている。もちろんスポンサーはいるのだろう。あるいは自分の店なのか。電話番号は英子に聞いていた。ダイヤルを回すと電話はつながり、若い女の声が出た。寺迫麻実の名を告げる。しばらくし、相手が替った。 「多門烈です」 「多門さん、話は英子から聞いたわ。いまどこなの」  喫茶店のマッチを手にして店の名前を言った。 「昨日は、英子とどこでのんだの」 「狸小路の『コーシカ』という店です」 「すぐお会いしたいけど、その『コーシカ』に六時半に来て下さる? おかげさまでお店、忙しいの」 「けっこうなことですね」 「あたし、あなたが高校生のころ、会ったことがあるの、英子の家で。大人になったんですって、英子がそう言っていた。お会いしたいわ」 「六時半に『コーシカ』で待っています」 「たのしみにしているわ」  電話を切って席にもどった。麻実の声は弾《はず》んでいた。弾んだ女の声というのは快いものだ。高校生のころ、何度か札幌に来た。そのとき麻実に会ったのだろうが、烈には記憶がなかった。  良彦ほどではないが、烈だって二十七歳の男である。女が嫌いなわけではない。特にいい女となればである。昨夜の英子はもったいなかったな、という気がする。年上女というのはいい。第一無責任になれるのだ。あとさきを考えなくていい。もっとも烈には年上女というのは経験がなかった。  心のどこかで、良彦に頼まれた仕事などどうでもいいことのように思えてくる。  珈琲は空になっていた。六時半までは時間がありすぎる。さっきメモした手帳を開いてみた。この店の上は書店だったようだ。店に入るときに、書店の看板が視界にあった。  ウエイトレスを呼び、もう一杯の珈琲をたのみ、書店で本を買って来ると言った。コートは椅子の上に置いている。ウエイトレスはどうぞ、と言った。烈はポケット型の時刻表を買ってもどって来た。そこへ二杯目の珈琲が運ばれて来た。  事件については大体わかったような気がしている。越智倫子は、釧路から急行『まりも』に乗り、終着の札幌駅で死体が発見された。  解剖による死亡推定時刻は、一時三十分から三時三十分の間、列車の中で鑑識が死体を見て判断したところでは、前後三十分ずつ短縮して二時から三時までの一時間ということだ。もちろん解剖は病院に死体が運ばれ、解剖にかかるまで時間がかかる。鑑識は現場で死体を見て判断する。死体の硬直や血液の沈澱など、経験から出るものだから早い。もちろん正確度から言えば解剖の結果だろうが。  倫子が殺されたのは、列車がどこを走っているときだったのだろう、と思ったのだ。それはきっと越智剛や吉永圭一郎のアリバイとも関係してくることになるはずだ。  倫子は列車内で殺されたのだから、列車の運行くらいは知っておかなければならない。急行『まりも』のページを開いた。   釧路発    二二時二八分   白糠     二三時一○分   音別     二三時二九分   浦幌      ○時○八分   池田      ○時四五分   帯広      一時二○分   新得着     二時一二分   〃 発     二時四八分   追分      五時四五分   千歳空港    六時○四分   札幌着     六時五○分  新得《しんとく》駅だけ着発を書いたのは、その停車時間が長かったからである。あとは着発はたいてい二、三分から、五、六分くらいである。  新得着が二時一二分、発が四八分。その間三十六分間ある。しかも、死亡推定時刻の二時から三時まで、というのに、ぴったり嵌《はま》るのだ。三十六分間あれば、たいていのことはできる。  たいていのことはできる。そのたいていのこととは何なのか。黒いコートの男が容疑に上っている。この男が犯人とまでは言えないとしても、何か知っているはずだ。捜査本部でも、全力でこの男を追っているのに違いない。  三十六分間停車、ずいぶん長く止るんだなと思う。寝台列車は、運転手や車掌が交代するためによく運転停車というのがある。だが、これは列車のドアは開かない。つまり乗客の乗り降りはない。だから時刻表には載っていない。だが『まりも』は、ちゃんと新得駅での着発が載っている、ということは、乗客の乗り降りがあるのだ。  鳥越刑事は、越智剛も吉永圭一郎もアリバイはない、と言っていた。もちろん、殺人事件の容疑は、アリバイの有無だけではない。動機がはっきりしないから逮捕に踏みきれないのだ。  だが、アリバイがない、ということは、犯人である可能性があるわけだ。  烈は、三十六分ということを頭の中に入れた。まだ事件をつき詰めていくには材料が少なすぎる。  越智剛には渡辺友紀という愛人がいる、と言った。吉永圭一郎にも会ってみたい、渡辺友紀もどんな女か見てみたい。  それにしても、越智剛は妻以外に女を作る男とは思えなかった。気力のない小柄な男だって、男だということなのか。もちろん、捜査本部もその辺は睨《にら》んでいるのだろう。渡辺友紀はただの遊びだけの女なのか。  ホテルに電話を入れてみた。もしかしたら、西方有里子から連絡が入っているのではないか、と思ったのだ。西方の家には、昨日のうちに、ホテルの電話番号は告げておいた。有里子は札幌に来れば、草加の家に泊ることになる。連絡がなくても心配することはないわけだ。  烈と一緒に札幌に行きたい、と言いながら、まだ来ていない。もしかしたら、今日のうちに来るのかもしれない。有里子を気にしたのは、札幌に来る前の彼女の様子がおかしかったからでもある。     3  六時三十分に少し前、烈は狸小路の『コーシカ』に入った。むこうの席で女が立ち上がった。派手な装《よそお》いの女だった。烈はその女に歩み寄った。女は白い歯を見せて笑った。 「多門さん?」  と言った。この女が寺迫麻実《てらさこあさみ》なのだ。烈は頭を下げた。 「どうぞ、坐って!」  と麻実が言った。たしかに遊んでいる女というだけのことはあった。胸もと首筋などの肌は白くて白蝋《はくろう》のような色をしていた。 「英子が言った通りだわ。あなたのような男がいるから結婚できない、って言葉よくわかるわ」  ウオッカのレモン割りをたのんだ。ウオッカはアルコール度は強いが、無味無臭である。カクテルのベースになる酒だという。彼女は赤い色のカクテルをのんでいた。 「東京では、こんなにモテたことはないな」 「嘘おっしゃい。恋人は何人もいるんでしょう。もちろん、何人いたっていいけど。あのころは愛想の悪い高校生だったものね」 「おネエさんたちがこわかったんです」 「あのころは二つも年上だったけど、いまでは二歳しか違わないのよ」 「こんなにモテるんじゃ、ずっと札幌にいたいな。それとも十年ぶりだからモテるのかな」 「あなたの魅力が女たちにわからないのよ」  男たちにとって札幌は天国なのか。たまたま昔なじみがいたので、よろこばれるのか。あるいは、英子や麻実の好む男たちが札幌に少ないのか。 「ねえ、一杯のんだらカシを変えましょう。ここは昨日、英子とのんだ店、あたしはあたしのムードがあるのよ」  ライバル意識なのか。店を出る。麻実は歩きだした。背丈も烈とバランスがとれるくらいはあった。百六十二、三センチ、それにハイヒールをはいていた。ブティックをやるだけあって着ているもののセンスはいい。烈に会うのでおしゃれして来たのか。もちろん、男に会うのにおしゃれしない女はいただけない。  札幌の街は大通りを境に北と南に分かれる。南四条西四丁目だと言った。『タナカ』という店に入った。ヨーロッパ風の店で、樽《たる》詰めのウイスキーをのませるという。若いアベックが多い。よく見ると、若いアベックだけではない。中年のアベックも多い。静かに酒をのめる店らしい。もちろん東京のようにカラオケはない。 「あたし、この店が好きなの」 「寺迫さんのムードですか」  ウイスキーの水割りをたのんだ。水割りが運ばれてくると、 「あたしと烈さんの今夜のために、カンパイ」  と言ってグラスを合わせた。うれしい女性というのはいいものだ。麻実は目鼻立ちのはっきりした美人である。しとやかさはともかく華やかさがある。女は常に男の前では花でなければならないのだ。 「寺迫さんはご主人がいるんでしょう」 「夫のいる女はつきあえないというの。ねえ寺迫さんなんて白々しいわ。麻実って呼んで、少なくともお酒の席だけでも」 「そうしましょう」 「夫とは別居中よ、頼りのない男でね。もっとましな男だと思ったけど、愚痴が多いの、男の愚痴っていやらしい。一緒にいると気持が沈んでくるの。暗い顔じゃ、お店はやっていけないのよ」  たしかに麻実の化粧は濃かった。 「麻実さん」 「そう、はじめはそれでいいわ。そのうちに呼び捨てにするの。あなたはあたしより若いし、烈《れつ》でいいでしょう」 「まあ、好きに呼んで下さい」 「烈って呼んだら、恋人に怒られるかしら」 「それを気にする麻実さんじゃないでしょう」 「でも、気は使っているのよ、あなたに嫌われまいって。烈は、あたしのような女、嫌いじゃないのかしらって。気にするということは、あたしのほうが弱いってことね。烈に対して自信がないの」 「越智さんって、どういう人だったんですか」  麻実はフフッと笑った。 「そうよね、あなたは倫子の事件を調べに来たんだ。遊びに来たんじゃない」 「そういうわけです」 「烈って、クールなのね。ふつうの男じゃない。ふつうの男は、札幌の男はと言うべきかしら、あたしとお酒のむと、お世辞言ったり、あたしに気に入られようとしたり、すごく親切になったり、そんな男ってつまらない」 「釧路で、倫子さんは黒いコートの男と一緒だったようですが、思い当ること、ありませんか」 「警察でも、同じこと聞かれたわ。倫子、それほど秘密主義ではなかったけど、あたし聞いていないの」 「倫子さんが人に恨まれるようなことは」 「なかったと思うけど、怨恨《えんこん》による殺人なの」 「いや、ぼくはまだ何も材料持っていないんですよ。警察も同じらしいけど」 「倫子って、男にしつっこいほうじゃなかった。ときには好きな男ができたらしいけど、一晩楽しめると、それで納得できる体質ね。あたしは好きになると、すぐには別れられない。それでいて気は多いの。ごめんなさい。何も答えられなくて」 「いいんですよ。それだけが目的だったんじゃないんですから」 「何か答えてあげられないかしら」  麻実は、しきりに脳の襞《ひだ》の中を探っているようだった。 「そう、良彦さんと関係あったんじゃないかしら、そういうことを聞いた覚えがある」 「良彦と?」 「でも、もう何年も前のことよ。良彦さん遊び人だから、倫子にはちょうどよかったんじゃないかしら。倫子は遊んでもこだわらないの。やはりご主人とお子さんが大事だったのね。遊び上手ということかもしれない。男を追いかける女ってみじめなものよ。倫子は決して男を追いかけたりしないタイプよ。良彦さんにもそれがわかったんじゃないかな。ちょいと摘《つま》み食いするにはちょうどよかった。彼もあたしには手を出さなかった。良彦さんのタイプじゃなかったのかもしれないけど」 「良彦がね」 「でも、良彦さんが倫子殺すわけないでしょう。もし倫子を思い出して抱きたいのなら、札幌で堂々と倫子を呼び出すわ。なにも隠れて会う必要などないんですもの。第一、倫子を殺してどうなるというの。あたし、よけいなこと言ったかしら」 「いいえ、良彦らしい話ですよ。良彦はこれまで何人の女をこなしたのか」 「こなすわけ、女を? 烈は何人くらいこなしたの」 「ぼくなんか、その気はあってもなかなか。女と遊ぶには、それなりに金がないとね」  たしかに、女と遊ぶにはそれなりの金が必要になる。良彦のようには金がない。だからと言って女にたかる気にはなれないのだ。そうなるとモノにできる女は限定される。ある意味では、英子も麻実も幼ななじみということでこうして会っている。十年ぶりになる。酒をのむのも懐しさもあったからだろう。 「あたしなんか、男を好きだけど、指折り数えるくらいの男しかないわ。あたしより、倫子のほうが多いんじゃないかしら。�あたし良彦さんに抱かれちゃった�と言ったのは、五年前くらいかしら。あたしにも何度か�麻実さん、おれと寝ようよ�と言ったことはあるけど、それ以上誘わなかった。誘われていたら、ふふっ」  と麻実は笑った。  良彦らしいやり方だ。彼はまずコナをかけておく。気軽に�寝ようよ�なんて声をかけておく。これをコナをかけるというらしい。すると女の方も、良彦に誘われればどうなるかを考える。いやだ、と思えば拒否すればいい。ちょっと興味が生まれれば、おそらく次に電話で誘われでもしたら、浮き浮きと出かけるのかもしれない。  もちろん、烈にはできないことだ。良彦は麻実にコナをかけたが、実際には誘わなかった。良彦は女を見る目があるのかもしれない。あるいは麻実を誘おうと思ったときには、他の女で間に合っていた、ということもあるのだろう。 「酔わないの」 「酔っていますよ」 「烈って、冷めたいのね」 「そうではないつもりですけど」 「あなたって、崩れないんだもの。『コーシカ』で会ったときと全く同じ」 「他の男たちのように、酔ってクダをまきたいですけどね」 「あたしを好きなの? 今夜、あたしと寝る気あるの?」 「そのつもりです」 「ほんとに、逃げ出さない?」 「逃げはしませんよ」 「迷いがないのね」 「はじめからそのつもりでした。そうでなければ、麻実さんには会いませんよ」 「あたし、烈のような男にはダメなのよ」 「ぼくではいやですか」 「バカね。その逆よ、惚れてしまいそう」  麻実の目は、かなり潤《うる》んで来た。     4 『タナカ』を出て、麻実はタクシーを拾った。タクシーは何度か曲った。それで烈には方向がわからなくなった。かなり呑んだようだったが彼女はしっかりしていた。  ビルの前に着く。そのビルはマンションだった。エレベーターに乗って七階に上る。部屋に入ってドアをロックすると、はじめて麻実は烈に抱きついて来て唇を求めた。唇を重ねると押しつけてきて、抱いた腕に力を加えた。そして舌を絡《から》めてくる。しなやかなよく動く舌だった。  烈はキスしながら、有里子を思い出していた。  麻実は、そっと体を離した。そして部屋の明りをつけた。 「どうぞ、ゆっくりして」  と言った。2DKの部屋らしい。だが女の部屋らしく、きれいに片付いていた。彼女はバスルームに行き、湯を注ぎはじめた。部屋に入ると、部屋の中をあわてて片付けはじめる女がいる。こういう女はいやだと思う。  この部屋に入る男は、あなたがはじめてよ、などという女も恩きせがましくていやだ。女にそんなこと言われると、烈は逃げだしたくなるタイプの男だ。 「ホテルのほうがよかったかしら」 「いいえ、ここでけっこうです」 「タクシーの運転手にホテルの名前を言うのって、いやなの。男の人が言うのは仕方がないけど」 「ぼくの部屋はシングルだし」 「いいのよ、烈さえよければ」  すすめられてバスルームに入る。ホテルのバスタブではなかった。湯槽に体を沈める。  体を洗ってバスルームから出る。そこにピンク色のバスローブがあった。 「ごめんなさい、あたしのしかないの」 「いいですよ」  とそのバスローブを着て紐《ひも》を結んだ。 「冷蔵庫にビールが入っているわ」  と麻実はバスに消えた。烈は冷蔵庫を開け缶ビールを手にしてソファに坐った。プルトップを外してビールをのむ。  倫子と良彦が、以前に関係があった。このことが気になった。良彦ならば姉の友だちを抱くくらいはやるだろう。  良彦は、倫子を電話で呼び出した。誰にも言わないで、と言えば倫子は誰に会うともいわないで家を出るだろう。良彦は釧路のホテルで待っている。東京から釧路へとび、そして釧路の駅の近くにホテルをとって待っている。倫子はいそいそとやって来る。  倫子は体の芯が抜けていた、と英子が言った。英子ではなく橋立陽子が言った。良彦は倫子を骨抜きにできる。そして、急行『まりも』の寝台車の中でも。  釧路駅の待合室の壁に立っていた黒いコートの男は良彦だったのか。  良彦のアリバイは聞いていない。十三日と十四日、東京にいたかどうか。だが、良彦には、倫子を殺す動機などあるわけはない。彼は医科大を出て、草加病院のあと継ぎになる男だ。女を殺さねばならない理由などあるわけはない。また倫子はこれまで話を聞いた限りでは、脅《おど》したり強請《ゆす》ったりする女には思えない。もっともほんとの動機などというものは、事件が解決してみなければわからないものだ。  そのとき、ローブ姿の麻実がバスから出て来た。顔の化粧はもちろん落していた。どこかぼんやりとしたイメージで、まるで別人みたいだ。素顔のほうがいい。このほうが上品だ。だが、ブティックをやっていくには、化粧を濃くしなければならないのだろう。 「感じが違った?」 「そのほうがいいよ」 「よかった」  と麻実は笑った。英子に言われて、もっと凄《すご》い女を予想していた。女というのはわからない。おとなしそうに見えて凄い女もいる。女は男にとって美人である必要はないのだ。どこかで可愛らしさを感じさせる女であって欲しい。  麻実は、三面鏡の前に坐って髪と顔を整えると、烈の前に立った。 「膝の上に坐ってもいい?」  可愛い女を演技しているのではなかった。どうぞと言うと彼女は足を揃え、尻を彼の膝に乗せて来た。そして両腕を彼の首に回すと唇を押しつけた。尻には弾力があった。スリムに見えたが、肉付きはいい。骨格が細いのだろう。  烈はローブの上から背中から腰のあたりを撫でまわす。快い肉だ。彼女は男の唇を舐《な》めまわし、そして舌で唇をこじ開けるようにする。舌先で歯茎のあたりに這わせる。 「いまだけでいいから、あたしのことだけ考えてね」 「きみだけ考えているよ」 「頭の中は他の女のことだったりして。もちろん頭の中は誰にもわからないことだし、他の女のこと考えていてもいいわ。でも、女って、こんなことを言いたいものなの」  喋ると息が吹きかかる。だが、いやな臭いはなかった。麻実は舌を入れて来た。その舌を吸う。しなやかでよく動く舌だった。舌が絡み合う。男の口の中の息を吸った。すると彼女の胸が膨《ふくら》む。彼は息を吹き込んでやる。すると、くぐもった呻《うめ》き声をあげた。二人の肺の中を息がいったり来たりしている。  興奮すると、肺の中に酸素が多くなる。すると心臓の動きが早くなるし息苦しくなる。空気を両方の肺の中に往復させていると炭酸ガスが多くなり、気持は落ちついてくる。興奮しすぎて息が苦しくなったときには、ビニール袋を口に当てて呼吸をすると楽になるという。それと同じ作用である。  麻実がそれを求めたということは、自分の興奮を静めたかったからだ。もちろん二十九歳にもなれば、そういうことも知っているのだ。  烈は手を前に当ててローブの前から胸の膨みを探った。膨みは充分にあった。しばらくはローブの上から膨みを揉《も》んだ。 「ふーっ」  と熱い息を吐き、くくっと笑った。 「あなたを好きになりそう」  彼女の目はすでに潤んでいた。女というのは目がものをいう。目が烈を求めている。こういう女の目は悪くない。有里子もこんな目つきをすることがある。  ローブの衿《えり》を開き、そこに片方だけ乳房をあらわにした。白い豊かな膨みだった。乳首はくびれるほどになっているが、思ったよりも色濃くはなかった。子供を生んだことのない乳首だ。  その乳房を手で包み込み、下から支えるようにしてゆすった。膨みが上下にゆたゆたと揺れる。これが二十九歳の女の重量なのだろう。彼女はくくっと笑って、自分の乳房を見た。 「きれいな乳だ」  もちろん麻実は自信があるのだろう。下から揉みあげる。乳首が充実している。乳房の柔かさとは逆だ。乳首を摘んで指に力を加えると、 「うーっ」  と声をあげた。乳房を揉みしだきながら、乳首を咥《くわ》えた。それを吸い、そして舌で転がす。アーッと声をあげ、腰をゆすった。乳首を吸いながら、手でローブの裾を開いた。そこに白い肉付きのいい脚がある。外側の腿を撫でまわした。尻のほうまでたどり着く。もちろん下着などはない。  女の肌というのは、手に快いものだ。骨を感じさせない肉付きがある。手を腿の間に入れようとすると、女の手がそれを拒んだ。自分から膝から降りると、一方のドアに歩いていく。ドアのむこうが寝室になっているようだ。  寝室に入ると、そこにダブルベッドがあった。麻実はそのベッドに仰向けになって、両手をのばした。部屋の照明は調節されてあった。烈は彼女の両腕の間に重なっていく。下瞼に舌を這わせる。下瞼はぷっくり膨み、艶《つや》やかである。この下瞼に皺《しわ》が集ってくると女が劣えてきた証拠である。女の体は咲き誇っているのだ。舌先で眼球を舐める。女の体がぴくっと震えた。 「妙なことするのね」  と麻実は言った。更には耳朶《じだ》を咬《か》みにいく。そして耳孔に舌先を押し込むようにする。また彼女の体がふるえた。そして再び唇にもどる。女は呻き声をあげて吸いついて来た。更に体をずり下げ、乳首を口に咥えた。 「あたし、狂うわ」  声をあげ、背中を反《そ》り返らせた。しなやかな体である。ローブの裾が乱れ、両足を剥《む》きだしにした。ローブの腰紐を解いてやる。ローブの前は自然に拡がり、白い腹を露出させた。その下腹部に黒々とした茂りが見えた。バスを使ったあとなので、その茂りは盛り上がっていた。  麻実は、手をのばして男の股間を探り、ペニスを手にして呻いた。内腿に手を滑り込ませると、ためらいながら、股間に男の手を誘い込んだ。男の手を締めつけて豊かな腰が蠢《うごめ》いた。 「あたしを抱いて、抱いて、ねえ」  とせつなそうな声をあげた。     5  十九日は日曜である。  多門烈は、ホテルの一室で目をさました。ベッドを抜けてシャワーを浴びる。昨夜、麻実は泊っていって、と言ったが、ホテルにもどって来た。女とは寝ても眠ってはならない。常識である。女の寝顔も見たくない。寝起きの女の顔は、ぼけてしまっている。興ざめしてしまう。男はとにかく、女は男に寝顔を見せてはならないのだ。女房は別としてだ。  もちろん、麻実のブティックは日曜が稼ぎどきでもある。 「また会えるわね」  と麻実は言った。もちろんさと答えた。まだしばらくは札幌にいる。事件を途中で投げ出すわけにはいかない。 「あたしたち、倫子と英子と三人で、六、七年前は、よくドライブしたわ」  と喋り出したのは、一応の歓喜が通りすぎたあとだった。  外出の仕度をすると、ホテルの部屋を出た。ホテルの前からタクシーを拾った。札幌西署と言った。西署に入り、交通課を聞いた。課員が出て来た。 「何でしょうか」 「六年前の轢《ひ》き逃げ事件を知りたいんです。昭和五十八年の七月だと思います」  署員が記録をめくる。 「これですね」  と署員は書類を烈のほうに向けた。烈はそれを手帳にメモする。  昭和五十八年七月二十七日、午後七時二十分ごろ、とある。被害者は、立原恭平《たちはらきようへい》の娘、奈保《なほ》、三歳、病院に運ばれたが一時間後死亡とある。 「もう時効ですね」  と署員が言った。住所を記した。礼を言って烈は署を出た。  その署員のところへ、捜査本部の鳥越刑事が姿を見せた。日曜日でも宿直の者はいる。日曜だからと言って事故や事件が起らないわけはないのだ。このところ札幌は交通事故が多い。札幌だけではない、北海道全体だ。  鳥越刑事は、書類を見て、ふうん、と鼻を鳴らした。 「あの男、なんで交通事故なんかに興味を持つんだ?」  と呟き、刑事室に引っ込んだ。急行『まりも』殺人事件の捜査は進展していない。被害者越智倫子の身辺を洗っているが、それらしいものは出てこない。  たしかに、被害者は釧路で、そして急行『まりも』の中で男と一緒だった。その男がどうしても割れないのだ。  被害者の体、つまり膣口は炎症気味だったと解剖検案書にある。彼女は男とかなり激しかったようだ。被害者の年齢から考えれば、その激しさもわからないわけではない。それだけ体が応えたということであろう。  その場所はどこか、それを捜査本部の刑事八人が釧路へ行って探している。二人が激しく燃えたところはホテルだろう。  だが、そのホテルはなかなかわからない。もちろん刑事たちは越智倫子の写真をそれぞれ手にしていた。その写真を持ってホテルを回っている。一般ホテルからラブホテルまで。  男の名前もモンタージュもない。男が先にホテルに部屋をとり、倫子がフロントには行かず、直接エレベーターに乗り、男の部屋に入ったとすれば、フロント係たちも、倫子の顔は見ていないかもしれない。するといかに倫子の写真を持ち歩いても反応はないことになる。  もちろん捜査員たちの仕事は、九十八パーセントは無駄である。二パーセントのために歩きまわる。そのために給料をもらっていることになる。  男のモンタージュでもあれば、探せる可能性もあるが、倫子の顔写真だけでは、不可能ではないにしても難しい。  ホテルでは、男が先に着いて、女があとから着く。その場合フロントを通さないケースもある。一般ホテル、観光ホテル、シティホテル、ビジネスホテル、さまざまなホテルがいまは情事用に使われる。一泊の料金さえ払えば、使用目的を聞かれることはない。ラブホテルよりも、それ以外のホテルが情事用に使われている。  その場合、男だけがフロントに行き、女は隠れていて、エレベーターに一緒に乗るというケースも多い。つまりフロントは女客の顔は見ないということになる。シングルの部屋に男女入ることもある。それをホテル側は拒否できない。それでもお客さまなのだ。  倫子の連れの男は、フロントに顔を見せている。だが倫子がわからなければ、男は特定できないことになる。 「おい、鳥さん、どうした」  と鶴見警部が言った。この二人が今日は当直になっている。 「いや、別に」  と鳥越は言った。彼は椅子に坐り、マイルドセブンを咥え、火をつけた。鳥越|雄介《ゆうすけ》には妻子がいる。三十七歳だから当然だろう。彼には女がいた。これは当然とは言えないだろうが、刑事も刑事である前に男だ。  あることでこの女は、札幌の暴力団のチンピラに絡まれていた。そこへ鳥越が間に入って解決してやった。それがきっかけだった。女に誘われて、彼はよろめいてしまったのだ。刑事でありながら、鳥越はその女にのめり込んで行った。  それだけ魅力的な女だった。警察を免職になっても、その女と別れられない、と思った。その女との一刻は甘美なものである。警察官でなければ、問題のない女だったのだ。刑事だって女に惚れることはある。  浮気の相手というのは、たいていの場合、女房よりもいい女である。だから迷う。女房以下だったら迷いはしない。女房子供を捨てても、と思う。がそれでは女房が納得しない。女とのいざこざは、警察官にとっては厳禁である。署長から忠告を受け、どうにもならないときは退職願いを出さなければならない。  警察を辞めて、再就職の道があるわけではない。高校を卒業して警察学校に入った。そして十六年も警察官をやっている。それをいま辞めるとなると、生活ができなくなる。北海道は再就職のむつかしい所でもある。失業者も日本一多いところではないのか、炭鉱がほとんど駄目になったせいでもある。  辞めたら生活できなくなるという怯《おび》えがある。収入がないからと言って、女に頼るわけにはいかない。その女に限らず、札幌の女は気が強い。女に甘えかかると、例外なくそっぽを向かれる。女房からは離婚され、女からは捨てられる。  そんなみじめな男たちがいかに多いことか。たとえやくざでも女の紐にはなれない。男に貢《みつ》ぐ女はいないのだ。セックスは対等である。そういう考え方なのだ。 「おい、鳥さん、どうした?」 「何でもありませんよ」 「何だか、妙に考え込んでいるじゃないか」 「いいえ、事件のことを考えていたんです」 「何か考えついたのかね」 「被害者の夫、越智剛ですよ。どうも納得いきませんね」 「たしかにアリバイはない。だが妻倫子を殺したとは考えにくい。仲は悪くない夫婦だったのだ。越智が妻を殺しても、何の得にもならないんだ。別の動機があればいいが、その辺は全く出て来ない。越智が女房を殺すとすれば、列車の中なんかでは殺さない。どっか山の中で殺して埋める」 「犯人は、どうして列車の中で倫子を殺したんですかね」 「すぐに死体を出す必要があったのだろう」 「保険金はどうですか」 「越智倫子は一千五百万の保険に入っていた。仲間に誘われて入ったそうだが、夫のほうは金の必要な状況ではなかった。また保険金殺人にしては、保険金が小さい。いまのところは、釧路の捜査を待つしかないな」 「黒いコートの男というのは、被害者とはどういう関係の男ですかね。愛人だったら、もっと男の影があるわけでしょう。男の電話を受けて、被害者はのこのこと釧路まで行き、殺された。越智剛は倫子がそわそわとして出て行った、と言った。また彼は倫子が男に会いに釧路に行くことを薄々知っていた。それなのに名前も聞いていない。もちろん聞いても男の名前を言うわけはない。適当に女の名前を言うでしょう。亭主も思いつかない男なんているんですか」 「越智剛が、何か隠している様子もないしな」 「いそいそと出ていくということは、よく知った男ということでしょう。倫子の過去にはそんな男はいないのですかね」  たれこみ電話は何本かあった。その一つは、十三日に急行『まりも』に乗った男だった。二号車三番下に乗っていて、女のよがる声を聞いて眠れなかった、と言った。眠れなかったのは二時間ほどで、犯行のあったと思われる時刻には眠っていたようだ。  この男に会いに行ったが、それ以上のことは聞けなかった。ただ倫子のあのときの声を聞いただけだったのだ。その声も男の名を呼んだということではない。そこからは、何も新しいものは出てこなかったのだ。もちろん、その男も黒いコートの男は見ていないし、一番、二番下席がカーテンを引いたままなのを見てそのまま下車しているのだ。 「どうして、列車の中なんかで殺したんですかね」 「列車の中が一番足がつきにくい。列車内の殺人事件というのは、捜査がむつかしいからね」 「それにしても、列車の中で情交をもったあと殺すなんて異常ですよ。だいたい、女と交わったあと殺すなんてこと、考えられませんよ。それも肌をそのままさらしていた。ふつうだったら、毛布くらい掛けてやるんじゃないですか。顔見知りの犯行というのは、たいてい殺したあと顔に何かかぶせるもんでしょう。どんな悪党だって、殺したあとは胸が痛みますからね」 「そういう意味では異常だね。ホテルで情交をもち、寝台車でも情交を持った」 「アソコが炎症をおこすほどにですよ」 「それだけの知り合いだったら、たしかに、浴衣くらいは掛けてやりたいものだな」 「犯人は倫子に何か恨《うら》みでもあったんですかね、痴情というのではなく、外の恨み」 「恨みね、恨みを抱いていて、それを表に出さずにさんざん抱いておいて殺す」 「何か、恨みの光景が見えてきますね」 「なるほど、恨みが、あるかもしれんな。被害者自身は、自分が恨まれているとは全く知らない」 「たとえば、どういうことが考えられますか」 「そうだな、誰かがひどい目にあっている。つまり、女が男に犯されている。倫子はそれを見ながら、知らん顔で去った。その女は倫子を恨むだろう。恨みながら女は自殺した。そういう遺書を残して。するとその死んだ女の兄か恋人が、倫子の命を狙う。あり得ることだな」 「だが、黒いコートの男は以前から倫子を知っていた」 「男は、こっそりと倫子に近づく。倫子はその男のことは外にはもらさなかった。だから夫も、他の誰も気付かなかった」 「恨みですか、いい線かもしれませんね。恨みならば、倫子の肌をむき出しにしていたのもわかりますね」 「恨まれているとも知らずに、倫子はいそいそと釧路まで出ていった。そう考えると彼女があわれだね」 「友だちや亭主の言葉では、恨みを買うような女ではなかったそうですがね」 「そうでなくても、いつも被害者はあわれだよ。だから、われわれは犯人を憎む。憎しみがあるから刑事をやっていられるんだ」 「でも、被害者は最高の気分のとき、刺され死んだんじゃないですか。言わば腹下死ですからね」 「フッカシ?」 「腹上死の反対ですよ。もっとも腹上死は男|冥利《みようり》につきるといいますが、ほんとのところはどうですかね。最高の気分になったとき脳の血管がプツンと切れる。あるいは心臓が止まる。あまりいいザマじゃありませんね」 「ちょっと、話が横道に外れたな」 「しかし、恨みというのは悪くないですよ」 「被害者は、瞼を閉じて死んでいたな」 「わたしが見たとき、瞼は閉じていました」 「ナイフを刺されたときは目を剥《む》くものだ。犯人が瞼を閉じさせてやった?」 「恨みを晴らしたつもりでも、被害者の目が気になった、ということですかね」 「死人の目というのはいやだからね。瞼を閉じさせてやるだけの気があれば、浴衣の前くらい合わせてやればよかった」  刑事同士の会話というのは、どこかで何かヒントになるものだ、ただの無駄話でもだ。鶴見と鳥越は動けない。こういう話でもするしかないのだ。     6  鶴見も煙草に火をつけて、煙りを吐いた。ナイフの出どころもまだわかっていない。もう一つあった。スマイルマークのバッジである。丸いアルミニュームに黄色い塗料が塗ってあり、笑い顔が書いてある。いつころか全国に流行した。 「あのスマイルバッジだが」 「ああ、被害者の首のあたりにあった?」 「恨みには、ちょうどいいんじゃないか」  もちろん、そのことは、捜査会議でも検討された。スマイルバッジは、大人はあまり持たない。バッジとして胸や帽子につけるのは子供だろう。もっともスヌーピーというマンガの主人公などのバッジは若い女の子も持っている。 「スマイルバッジは子供ですね。すると子供の恨みですか」  鳥越の頭の中で何かが閃《ひらめ》いた。  そのとき、電話のベルが鳴った。鶴見が椅子を立って、受話器を把《と》った。 「はい捜査本部、おお、猪原くんか。なんだって、黒いコートの男らしいのがみつかった?どこだ。釧路シーサイドホテル?」 「はい、はっきりしたわけではありませんが、十二日の夕方、チェックインしています。そのときには男一人だったそうです。翌十三日の午《ひる》すぎに女が来まして、エレベーターに乗りました。その女が被害者に似ているというんです」 「男は何者だ」 「名前は、朽木高史《くちきたかし》、住所は札幌になっています、が電話したところ該当《がいとう》する人物はいません。偽名ですね」 「もう一度名前を」 「木が朽ちるの朽、材木の木、高低の高、そして歴史の史です」 「住所は?」  鳥越は鶴見が言うのをメモした。 「それで、どうするんだ?」 「釧路署に協力してもらって、モンタージュを作りますよ。あまり記憶にはないそうですが」 「よし、橋立、いや野村陽子さんだったな、彼女にも来てもらえ」 「わかりました」 「モンタージュができたら、釧路駅と、駅周辺の食堂、喫茶店など当ってみてくれ。二人は列車に乗る前に食事をしているはずだ。その男と被害者のチェックアウトは?」 「午後七時ころだそうです」 「それじゃ、『まりも』の発車が二二時二八分だから、三時間半ばかり時間があることになるな、その間駅の待合室にいるはずはない。メシ食ったり、喫茶店に入ったりしているだろう。すると、朽木高史についても、もっとわかるかもしれん」 「わかりました。そのようにします」 「明日、主任にもそのことは言っておく、がんばってくれ」  鶴見は受話器を置いた。 「少し犯人の影が見えて来たな」 「朽木高史ですか。偽名くさいですね。木が朽るですか」 「いや、朽木という姓は江戸時代からある。もっと昔からかもしれん、朽木という大名がいた」 「鶴見さんは、歴史にくわしいですからね」 「いや、時代小説が好きなだけだ」 「でも、どうして朽木なんて偽名を使ったんですかね、偽名なら鈴木とか佐藤とかつければいいのに」 「犯人のそのときの気分だろう。札幌に朽木姓があるのかな」 「調べてみましょう」  鳥越は、電話帳のページをめくりはじめた。  三章 六年前の事故     1  札幌駅の一つ西側に苗穂《なえぼ》駅がある。その北側に本町がある。札幌刑務所、拘置所に近いあたり、明啓院という寺の近くに、立原恭平という男が住んでいる。  多門烈はこの立原を訪ねた。彼は苗穂駅前に不動産業の事務所を持っていた。日曜日だから事務所にいるか、と思ったが、休んでいるらしく事務所は閉っていて、住いのほうに回った。小さな社宅のような家だった。玄関を開けて声をかけると、おう、と男の声がして、四十歳くらいとみえる男が出て来た。綿入|半纒《はんてん》を着ていた。 「あんたは何だ」  烈は名刺をさし出した。 「多門烈? 何の用ですか」 「六年前に、お子さんを亡くされましたね」  立原は烈をジロリと見た。 「いま警察で調べて来たんです」 「あれからついていなくてね、轢《ひ》き逃げ犯でも見つかったんですか」 「そういうわけではありませんが、そのことを少しおうかがいしたいと思いましてね」 「ちらかっていますが、まあ上がって下さいよ。そこは寒いでしょう」 「それでは」  と烈は靴を脱いだ。  部屋に入ると石油ストーブが燃え、炬燵《こたつ》が据えられていた。彼は炬燵の上で書類を整理していたようだ。書類を重ねてそばに置いた。  不動産屋というのは相手を見る。烈をただの男ではない、と見たようだ。立ち上がってお茶を淹《い》れはじめた。一人暮しのようだが、一応は片付いていた。よく見ると見た目よりも若い、三十五、六だろう。背丈もわりにあって百七十二、三センチはありそうだ。もちろんいい生活とは言えない。不動産屋と言っても、大会社のピンから、駅前に小さな事務所を持つキリまである。立原はキリのほうだろう。 「お一人ですか」 「奈保が死んでから、女房にも逃げられましてね」  そう言って、彼は茶を運んで来て炬燵に入った。三間に台所のついた家である。それでも、一人で住むには広い。 「煙草、いいですか」  灰皿は吸殻でいっぱいだった。それをそばにある屑籠《くずかご》に捨てた。烈はキャスターを咥《くわ》え火をつけた。 「あなたは、東京の人ですか」  名刺の法律事務所の所在地は東京である。 「実は、ある事件の調査を頼まれて、札幌に来ました」 「それが、娘の交通事故と関係があるんですか」 「まだわかりません」  女房に逃げられたからといって荒れた生活をしているわけではなさそうだ。 「そのときの様子を聞かせてくれませんか」  立原はしばらく黙った。思い出すのがつらいのか。烈は、彼が話しはじめるまで待った。 「あの日、夏でしたか」 「ええ、七月です」 「私は家に帰って来て、電話で仕事の話をしていました。女房は炊事場で夕食の仕度をしていたんです。電話しているとき、キキキーッ、と車のタイヤが軋《きし》む音がしました。私は家の中に奈保の姿を探しました。女房に、奈保はどうした、って言ったんです。女房は、そこいらにいるでしょう、って。私はあわてて受話器を投げ出して外にとび出したんです。目で奈保の姿を探しました。奈保は倒れていました。そのときむこうに乗用車の赤いランプを見ました。どこかに傷を負っている様子はない。だが奈保は泣きもせずにぐったりしていました。女房を呼んだ。聞えないのか、女房は出て来ません。奈保を抱いて家に入り、救急車を呼びました。運悪くというのか救急車はなかなか来てくれない」  そこで立原は声を詰らせた。 「病院に運んで、一時間後、奈保は息を引き取りました。軽い打撲でしたが、はねとばされて倒れたとき、頭を打っていたんです。奈保をはねた車は、傷もついていないだろう、ということでした。ブレーキを掛けたあとはありましたが、車はそのまま走り去ったようです」  この家の前には国道二七五号線が走っている。そして道はカーブになっている。スピードを出しすぎると曲りきれないで、立原の家の近くまで車体が滑って来る。危険なところだったのだ。奈保は走って来た車に接触し、はねとばされたのだ。  狭い家の中には、甘い脂粉の臭いがあった。 「それから夫婦仲がうまくいかなくなりましてね、三年前に別居しました」  むこうに小さな仏壇があった。 「あれですか」 「ええ、奈保も運が悪かったんですね」  烈は立って、仏壇の前に坐って合掌した。そしてもどって来た。 「警察でも捜査はしてくれたんですが、わかりませんでした。タイヤのスリップあとだけですからね。車の塗料の破片があるわけではないし」 「犯人を探されたんですか」 「探すも何も、何の手がかりもないんですからね、どうしようもありませんよ」 「奈保ちゃんを殺した犯人が憎いですか」 「そりゃ、もちろん、みつかったら、ぶっ殺してやりたいですよ」 「殺してやりたいのと、実際に殺すというのは、雲泥の差ですからね」 「あなた、何を言いたいんですか」 「いや、失礼しました。急行『まりも』殺人事件、ご存知ですか」 「ああ、テレビで見ました。あの女が奈保をはねた犯人だと」 「いや、そうは言いませんが」 「私があの女を殺したんだと」 「違いますか」 「冗談じゃない、私はあの女のことなど何も知らん、妙ないい掛りはつけないでくれ」 「ぼくも、そうだと思います」 「奈保が死んだことと、あの女と何か関係があるんですか。あの女が奈保をはねたんですか」 「急行『まりも』で殺されたのは越智倫子、その事件を調べているうちに、奈保ちゃんの事件が浮かび上がって来たんです。昭和五十八年の七月ということで、西署の交通課で調べたら、この事件があったんです。もちろん未解決のままです。奈保ちゃんじゃないかもしれない。七月の交通事故は奈保ちゃんだけではありませんのでね」 「その情報はどこから入ったんですか」 「それは言えないんです。いや、むしろ立原さんのほうが、ご存知かもしれない、と思って来てみたんです」  車にはねられて子供が死んだ。はねた車は逃げ去った。子供の父親は車を運転していた者を殺したいほど憎み、恨む。人を殺す動機としては充分だろう。  この立原は、何かの偶然で、娘をはねた者を知ったのではないのか、そう思ったのだ。 「その、オチ」 「越智倫子です」 「その越智倫子が、奈保をはねたんですか」 「まだ、はっきりはしていないんです」 「奈保をはねたやつを探し出して殺してやりたい、と思いましたよ。だけど、探しようはないでしょう。警察にもわからないことが」  奈保をはねて死なせてしまった者も、殺意はなかった。原因はスピードの出しすぎか、わき見運転かそんなところだろう。過失致死である。六年経っている。過失致死の時効は三年だったか。 「私には、そんな暇はありませんよ。忙しいですからね。それに、奈保をはねたやつがわかっても、奈保が生き返るわけでもありませんしね。人を恨めば穴二つでしょう。自分の墓穴は掘りたくありません。奈保は運が悪かったんです。そう思うしかないでしょう」 「でも、奥さんと別居では、ご不自由でしょう」 「いや、その辺は何とかやっていますよ」  妻と別居しても女には不自由していないということか。     2  烈はパークホテルにもどった。有里子のことが気になっていた。東京の有里子の家に電話を入れると、彼女は家にいたのである。 「ごめんなさい。事務所を休めないの。そちらに行きたいんだけど」  有里子はそう言った。 「いいんだ、そのほうが」 「何かわかったの」 「まだ、たいしたことはわからない」  二十一日は春分の日だ。十九日が日曜、サラリーマンはたいてい二十日の月曜日は休みをとって三連休にする。だが、有里子は、二十日にも事務所に出なければならない、と言っていた。  ぜひとも有里子に札幌に来てもらいたいわけではなかった。有里子のほうで一緒に行きたい、と言っただけなのだ。 「ごめんなさいね」 「そんなことはないさ」  と言って電話を切った。むしろ烈にしてみれば、有里子が来ないほうが動きやすい。そのまま彼は喫茶室に入り、珈琲をたのんだ。  煙草をくわえて、窓の外を見る。汚れた雪が積み上げてある。この雪が溶けてしまうのは、いつだろう、と思う。  昨夜、寺迫《てらさこ》麻実は、抱き合い一息ついたところで、六年前の交通事故のことを喋《しやべ》った。そのころは、草加英子、倫子、そして麻実と三人であちこちをドライブして回った。車は英子のものである。三人とも運転免許証は持っていた。  運転の一番うまいのは英子だった。だからほとんどは英子が運転し、疲れると倫子や麻実が交代した。  その日は函館まで遊びに行った。そして、帰りに、札幌の入口近く、気がゆるんでいたのかもしれない。明啓院の近くで、カーブを曲りきれなかった。車体が大きく傾き、タイヤが鳴った。  車は止まった。 「子供をはねたみたい」  と英子が言った。麻実が降りて走った。そしてもどって来た。 「行って、早く、面倒なことになるわよ」  三人はワインをのんでいたのだ。酔っていてハンドルさばきが甘くなっていたのかもしれない。英子は車をスタートさせた。  草加家の車庫に入れ、車を調べてみた。車には異常はなかった。 「はねたわけじゃないのよ」  たしかに女の子は急に車の前にとび出して来た。ボールか何か追って来たらしい。  それ以後、三人は何となく白けてドライブもしなくなった。 「倫子が殺されたの、その事故が原因かもしれないわ」  と言った。それで烈は西署の交通課に記録を調べに来たのだ。軽い女の子をはねたくらいでは、車体には傷は付かないのかもしれない。小さな打撲があったという。だが、死因は脳内出血だった。  越智倫子殺しの動機としては、充分だろうか。死んだ娘の恨み、と考えてみる。立原恭平は、何かのきっかけで、奈保を死なせたのが英子ら三人と知る。そして殺しにかかった。まず倫子を殺した。英子も麻実も狙われることになる。  烈は珈琲をのみ、そして首を傾けた。立原が人を殺すだろうか、と考えてみる。恨みというのは、個人差がある。日本人は恨みには淡白だと言われている。  烈は以前よく思ったことだ。中学生が仲間にいじめられて自殺する。本人は恨みをのんで自殺した。子供に死なれた父親がテレビでインタビューに答えていた。息子をいじめた中学生たち、もうこういうことはしないように、立派な人間になって下さい。この父親は自分の子供を自殺に追いやるまでいじめた子供たちを、少しも恨んでいないのだ。これを見て烈は妙に思った。親子の関係とは一体何だろうか、と考え込んでしまった。  もちろん、その子供たちに復讐するのは大人気ない。死んだものはもどって来ないのだから。復讐すれば自分も罪になる。家庭もこわれる。諦めてしまったほうがいいのだと、常識的に考える。  もちろん、その父親だけではない。いじめが社会的話題になり、多くの子供が自殺した。だが、復讐したという話は一度も聞かなかった。民族によって恨みの強弱はあるようだ。  昭和から平成になって、テレビで古いドキュメントが放送されていた。広島、長崎の原爆による悲惨さがにじみ出ている。だが、平成の現在、原爆を落したアメリカに対して、恨みを抱いている日本人はほとんどいないのではないか。もちろん、烈は戦争というものを知らない。だからアメリカを恨みようがないのか。  恨みというのは、代々受け継がれていくものである。明治維新に会津は薩摩に攻撃された。いまでも会津人は薩摩人を恨んでいる。また万延元年に彦根藩主の井伊大老が桜田門外で水戸浪士によって暗殺された。彦根の人はいまだ水戸を恨んでいるという。  だが原爆の恨みはない。だから日本はいまの繁栄があるのだ、という人もいる。  釧路の黒いコートの男というのは、立原ではなかったのか。  喫茶室の入口に黒い影がさした。烈が顔をあげる。入って来たのは鳥越刑事だった。 「何か?」  というと、彼はニヤリと笑って、向いの椅子に坐った。手をあげ、ウエイトレスに、珈琲、と言った。 「多門さん、あなたは妙なところに行かれましたね」 「はあ?」 「とぼけても駄目ですよ。立原恭平に会われたでしょう」  西署の交通課へ行ったのだから、鳥越に知られても仕方がない。うかつだった。このことは考えてもみなかったのだ。素人というのは、こういうところにボロを出す。 「立原さんとは、どういうおつき合いですか、立原の娘が六年前に車にはねられて死んでいる。この事故と『まりも』の件とは、どういう関係があるのか、教えていただけませんか」 「関係あるかどうかわかりません」 「でも、あなたは立原のところに行かれた。どうして六年前の事故を調べられたんですか、立原のことを。いやそうではないな、六年前に子供が車にはねられたことを、どうして知ったんです。誰に教えられたんです?」 「言えません」 「多門さん、これは殺人事件なんですよ」 「知っています」 「札幌に来て、誰に会われました。立原を以前から知っていた、ということはないはずだ。六年前に誰かが子供を車ではねた。それを聞いて西署の交通課に来て調べた。未解決事故の中に、立原の子供のことがあった。そうですね」 「おっしゃる通りですね」 「それをあなたに話したのは誰なんです」  いずれはわかることだろうが、烈と草加英子、寺迫麻実との関係は、西署ではまだ知らないはずだ。 「第一、札幌の事件に、わざわざ東京から来て顔をつっ込むというのからしておかしい」  考えてみれば、たしかにおかしい。だが、いずれはわかるとしても、本当の依頼人が草加良彦であることは言えない。殺された越智倫子が良彦の姉英子の友だち、ということで良彦は調査してくれ、と言った。  寺迫麻実が言っていた。倫子は良彦と何度か寝たらしいと。だから倫子の死に興味を持ったのか。良彦がなぜ倫子の死を調査させるのか、その興味もあって、烈はこの事件の調査を引き受けた。 「多門さん、教えて下さいよ」  なだめたり、すかしたり、そして脅したり、警察の常套手段である。 「実は、ぼくにも、何もわかっていないんですよ」 「立原のことは、どうしてわかったんですか。どこかで噂を耳にした、ということではない。ある人からその話を聞いた。そのある人というのを教えて欲しいんです」 「言えません。少なくともいまは」 「言ってもらうと助かるんですがね」 「申しわけありません」 「あなたも強情な人だな」 「ぼくには立原さんと越智倫子の事件が関係あるかどうかもわかっていないのです」 「それは捜査本部が考えることです」  烈は頭を下げるだけだった。 「どうして隠すんです」 「確信がないからです」 「警察に出頭してもらいますよ」 「仕方ないでしょう」 「おれは、あんたを敵にしたくはないんだけどね」 「仕方ありません」 「このホテルを引き払うときには、捜査本部に連絡して下さいよ」  鳥越は、珈琲代三百円をそこにおいて席を立った。  六年前の交通事故は、麻実が寝物語に喋ったことだった。麻実の名前を出せば、麻実も英子も参考人として捜査本部に呼ばれることになる。この二人に口の軽い男とは思われたくなかった。いずれはそのことは、捜査本部が知ることになるとしてもだ。  六年前、英子が運転する車が、立原の娘奈保をはねたことは確かなようだ。飲酒運転だった。だから三人は逃げだしたのだ。麻実は立原の名前は言わなかった。昭和五十八年七月のことだと言った。それで西署の交通課に行ったのだ。  ベッドの中だから、麻実は烈に気を許したのだろう。あるいは麻実は六年前のことが気になっていたのかもしれない。気になっていないはずはない。子供一人を死なせたのだから。  倫子が『まりも』の中で殺されたとき、麻実は六年前のことを思い浮かべたのかもしれない。立原が倫子を殺したのなら、彼はまだ麻実と英子を狙うことになる。恨みというのは時間と共に薄れることもあるが、逆に増幅されることもあるのだ。     3  二十日、月曜日——。  捜査本部に、石渡主任が出て来た。  不動産業の立原恭平は、少なくとも容疑者の一人である。捜査本部では容疑者が出なくて困っていた。 「参考人として来てもらえ」  と石渡が言った。刑事二人が出て行った。 「鳥越くん、その多門烈というのは何者かね」 「はあ、東京の法律事務所で働いています。身元の確認は一応してあります。急行『まりも』殺人事件を調査しているそうです。依頼者は越智剛と言っています。越智にもその件は電話で確めました。だが妙な男です。まだ二十七、八歳なのに、どこか落ち着き払っていましてね」 「うろうろされてはかなわんな」 「ですが、多門のおかげで、立原が浮かび上がってきたのですから」 「素人もばかにはできんということかね」 「素人には、われわれの見えないところが見えてくることもありますから、今日のことのように。多門も呼びますか」 「いや、鳥越くんの話では、呼んでみても何も喋らんだろう。他に何か知っている様子だったかね」 「いいえ、立原のことは偶然知っただけのようでした」 「だったら、泳がしておいたほうがいい。釧路のほうは、どうなった」 「それは」  と鶴見警部補が口を出した。 「昨日、猪原くんから電話があって、黒いコートの男らしい男の泊ったホテルをみつけたと言ってきました。釧路署に頼んで、いまごろモンタージュを作っているはずです。引き続き聞き込みを続けるよう言っておきました」 「黒いコートの男が立原なのか」 「そう、うまくいくとは思えませんがね」  本部の婦警がお茶を淹《い》れて来た。石渡の茶碗は大きい。茶をすする。  報告をすますと、鶴見と鳥越は署を出た。昨日が宿直だったので、今日は非番である。もちろん徹夜だったわけではない。宿直室があり、そこで眠るようになっている。だが、いつ電話が鳴るかわからない。落ちついては眠れない。 「鳥さん、どうする」 「家に帰って寝ますよ」 「そうだな、体力は保っておかんとな」  二人は手を上げて別れた。鳥越は赤電話をみつけて電話した。 「おれだ、鳥越だ。ちょっと一時間くらい、体が空かないか」 「どうして、こんな昼間に」  と女が答えた。 「昨日が宿直でね、疲れた」 「だったら、帰って、寝ればいいじゃないの」 「それが、疲れているときは、むずむずするんだ、いかんか」 「いいわよ、どこへ行けばいいの?」 「そうだな、いつものとこ、先に行っているよ」 「わかったわ」  電話を切って、鳥越は歩きだした。札幌駅近くのビジネスホテルに部屋をとった。もちろん偽名である。ダブルの部屋である。連れがあとから来るから、と言ってキーをもらい、エレベーターに乗る。  鳥越は部屋に入り、シャワーを浴びる。そして素肌に浴衣を着て、冷蔵庫のビールを出し、椅子に坐る。ビールを一息のんで息をつく。刑事だって女は好きだ。刑事だから浮気してはいけない、という規則はない。もっとも、うしろめたさはある。だから極秘にデートしている。一緒に酒をのむなんてこともない。電話で打ち合わせて、別々にホテルに入り、別々にホテルを出る。  相手も亭主のある身だった。極秘にしなければならないわけだ。股間が勃然としていた。彼は健康な男である。欲情して当然である。  ビールを空け、ダブルベッドに仰向けになった。そこへドアがノックされた。ドアを開けると、女が照れた顔で立っていた。部屋に入って来て、ドアを閉め、ロックする。  彼は女を抱き寄せ、スカートの中に手を入れた。 「あっ、何するの」 「いいじゃないか、セックスはなにも裸になってするものとは限らない」 「待って、シャワーを浴びて来るわ」 「いいよ、終ってからシャワーを浴びろよ」  彼は女をベッドに押し倒した。そしてスカートをめくりあげ、そのままパンティをめくり下げる。 「ムードも何もないのね」 「ムードを求めるのは若い男女さ」 「するだけでいいの」 「きみだってそれだけでいいはずだ」  女の体は熟れていた。だから時間をかけなくても、すぐに可能になる。鳥越は女の体に重なり体をつないだ。女は声をあげて、しがみついてくる。  このホテルに入るまでに、すでに体はその気になっていた。鳥越に抱かれるということがわかっていたからだ。女は体に触れられなければ、感じないというのは嘘である。女にも妄想というのはある。もっともそれだけの体験はなければならない。  女は声をあげて身悶えた。彼女はすぐに頂上に達することができる。三十分ほどは、女は声をあげ続けた。そして男が果てる。 「どうだ、新しい男はできたか」 「ええ、いろいろと」 「きみは好きだからな」 「あなただって好きなくせに」 「おれとのことは、誰にも知られていないんだろうな」 「あなたが喋らない限り」 「手帳とか、アドレス帳に、おれの名前とか電話番号なんて書いてないんだろうな」 「大丈夫よ。もう帰っていい?」 「いいよ、ご苦労さん」  女は鳥越の体を離れ、下着をつける。そして、バスルームに入ると、鏡に向って化粧を直し、髪の乱れを直した。 「シャワーは浴びないのか」 「シャワーを浴びるとかえって気付かれるのよ」 「そういうことか」 「じゃ、またね」  と女は部屋を出ていく。あわただしい情事だった。それでも、往復の時間を入れると、一時間以上かかることになる。  ベッドのそばのテーブルの上には、一万円札一枚がのっていた。女が置いていったホテル代である。鳥越はそれを財布に入れ、顔をゆがめた。刑事は薄給である。これまでの習慣で、飲み食い代、ホテル代、タクシー代などは女が持つことになっていた。  いつもこんなあわただしい情事というのではない。じっくり時間をかけて楽しむこともある。今日は例外なのだ、と思う。  鳥越は、しばらく、ベッドでまどろんだ。     4  そのころ、西署、捜査本部では、電話のベルが鳴っていた。石渡主任が受話器を把《と》った。釧路から猪原刑事の電話だった。 「主任、すみません、朽木高史は容疑者ではないようです。連れの女は、越智倫子ではありませんでした。女は釧路のOLでした。これからどうしましょうか」 「時間がかかりそうだな、一度、全員もどって来てくれ」 「わかりました」  と電話を切った。一つ手掛りが消えたことになる。黒いコートの男の手配は釧路署でやってくれるだろう。八人の捜査員を出している。その費用がばかにならない。捜査活動のブレーキはたいてい費用である。 「主任、立原恭平さんに来てもらいました」  と鹿内刑事が言った。立原は取調室に入ってもらった。もちろんストーブは入っている。 「わかった、しばらく待たせておけ」  待たせておくことが効果的かどうかわからないが、たいてい参考人は待たせておく。待っている間に容疑者はいろいろ考える。考える時間を与えるというのではない。不安を与え怯《おび》えさせる。取調に暴行を加えては問題になる。とすれば捜査本部では心理作戦をとらなければならない。心理的拷問というやつである。  もちろん、立原が容疑者というのではない。だが、立原が犯人とすれば動機はあるわけだ。石渡主任としては慎重に調べたかった。  いま、容疑者が一人消えたばかりである。 「釧路の容疑者は消えた」 「あの朽木高史ですか」 「そう、越智倫子の連れではなかったようだ」 「近ごろのアベックは本名を書きませんからね」  こういう会話も時間つなぎである。  石渡は立ち上がった。そして取調室の隣りの部屋に入る。マジックガラスから、立原の姿が見える。落ちついて煙草を吸っていた。犯人だとしても、さまざまだ。そわそわと落ちつかない者もいるし、開き直って落ちついて見える者もいる。  しばらくの間、立原を眺めていた。様子で心の動きを知りたいのだ。だが、様子だけではわからない。したたかな男なのか。  石渡は部屋を出て、鹿内刑事を呼んで取調室に入った。 「どうも、お待たせしました。いま電話が入ったものですから」  と弁解した。立原は焦《じ》れている様子ではなかった。辛抱強い男なのだろう。石渡は机を挟んで坐った。鹿内刑事が横に立つ。 「さっそくですが、三月十三日は何をしていらっしゃいましたか」 「えっ?」  と立原は石渡を見た。予想外の質問だったようだ。 「一体、何のことですか」 「ご存知でしょう。十四日の急行『まりも』殺人事件のことで、おいで願ったのです」 「わたしと何の関係があるのですか」 「関係があるかどうかは、こちらで判断します」 「どういうことですか、説明して下さい」 「立原さんに、越智倫子殺しの容疑がかかっているんです」 「わたしは、越智倫子なんて女は知りませんよ、どうしてその女を殺すんですか」 「昨日、多門烈という男があなたの家に行きましたね」 「ええ、来ました。六年前のわたしの娘奈保の事故死のことを聞いていましたが」 「なぜ、多門があなたに会いに行ったんでしょうね」 「わたしにもわかりません」 「あなたは、娘さんが越智倫子に轢《ひ》き殺されたのだと知っていたのではありませんか」  立原が口を出そうとするのを手を突き出して止めた。 「あなたは越智倫子を殺す動機があったわけです。彼女が娘さんを轢き殺した犯人だと知っていたからです」 「ちょっと待って下さい。六年前の事故死は警察でもわからないんでしょう。それなのに、わたしが知るわけがないじゃないですか」 「いや、西署で知らなくても、あなたは知っていたかもしれない」 「冗談じゃありませんよ。わたしは、娘が車にはねられたとき、走り去っていく車のバックの赤いライトを見ただけです。車のナンバーは見えませんでした。見ていれば警察に話していました。わたしが犯人をみつけられるわけはありません」 「その辺は水掛け論ですね。多門烈は、なぜあなたの家に行ったんでしょう」 「それは、多門という男に聞いて下さい。わたしにはわからないことです」 「そうしましょう。ところで三月十三日は、どこにおられました」 「急に言われても、思い出しませんよ」 「言っていただきます」 「わたしになぜ容疑がかかっているんですか」 「容疑というより、関係者にはみなさんお聞きしておかなければならないことです。もちろん、あなたにしっかりしたアリバイがあれば、われわれも、あなたを容疑から外せるわけです。はっきりしていただかないと、いつまでも、あなたを疑わなければなりませんのでね」 「そんなバカな、そんな前のこと、覚えていませんよ」 「十三日は、月曜日です。日曜日の次の日ですよ、あの日は、たしか少しだが雪が降りましたね」 「アリバイを作るための生活なんてしていませんからね」 「たしかに、思い出すのには努力がいるでしょう。苦痛でしょう。でも、思い出していただきたいのです。手帳など、お持ちではないんですか」  あ、と声を上げて、立原は背広の内ポケットに手を突っ込んだ。 「あなたの店は、日曜は開けているんですか」 「ええ、部屋探しの人は多いですからね。そう言えば、月曜日は店は休みました」 「休んでどこかに行かれましたか」 「家にいました」 「誰か訪ねて来ませんでしたか」  立原は、手帳を開いた。 「あ、ありました。宮崎さんが来ました。不動産仲間で、情報交換です」 「何時ころですか」 「えーと、午後二時くらいでしたか、そう、午後六時ころ、遠山さんから電話がありました」  石渡が、宮崎と遠山の連絡先を聞き、鹿内が手帳に書きとる。 「それでは、その夜はどうでした」  立原は、少し言いよどんだ。 「女と会っていました」 「その女の人とは、何時ころ別れました?」 「えーと、十一時ころだったと思います」 「午後十一時ですね。その女の人の名前は?」 「言わなければならないんですか」 「言っていただきたいですね、公表はしません」 「東田久仁子《ひがしだくにこ》です。東西南北の東、田圃《たんぼ》の田、永久の久、仁義の仁です」 「その東田久仁子さんの連絡先は?」 「それはわかりません。彼女が言いませんでしたから」 「その東田久仁子さんとは、いつごろからおつき合いがあったんですか」 「三月十三日がはじめてです」 「一度だけですか」 「十七日の夜にも会いました」 「その女性の確認がとれないと、あなたのアリバイは成立しませんね」 「ホテルに入りました。そうだ、ホテルで確認できます。ちゃんとチェックイン、チェックアウトしていますから」 「ホテルは、どこですか」 「ホテルグリーン|3《スリー》です」  札幌には、ホテルグリーンが、1、2、3とある。 「十七日も同じですか」 「はい」 「どのような女性でしたか」 「二十八歳だと言っていましたが、少し若いようでした。わたしには女の年齢などわかりませんが。可愛い、わりに背の高い女で、わたしにはもったいないような女です」 「背の高いって、どれくらいですか」 「百六十センチほどだと思います」  石渡が合図し、鹿内刑事が出ていった。そしてしばらくするともどって来た。ホテルに確認を取りに、別な刑事が行ったのだろう。 「ちゃんとしたアリバイがあるじゃないですか」 「でも、過ぎたことは、すぐには思い出せませんよ」 「あなたが誘ったんですか」 「ええ、わたしの隣りで、一人で酒をのんでいたものですから、たとえ無駄でもと声をかけました。わたしのような男とホテルに行くのですから、何か事情があったのでしょうが、そんな事情を聞くのは、エチケットに反することでしょう」 「彼女は住所を教えなかった?」 「ええ、わたしは名刺を渡しました。またその気になったら電話してくれ、と言って」 「十七日もお帰りは十一時ですか」 「いいえ、その日は泊りました」 「立原さんは、奥さんと別れられたんですね」 「ええ、奈保が死んで以来、夫婦の間がおかしくなりまして」 「お独りでは淋しいでしょう」 「はあ」 「他にも、女性がいらっしゃいますか」 「ええ、ときどき会う女がいますが」  婦警が鹿内を呼びに来た。鹿内が出て行き、しばらくしてもどってくると、石渡の耳に囁《ささや》いた。石渡が頷く。 「立原さん、どうもお引き止めして。お帰りになってけっこうです」  さすがに、立原はホッと息をついた。彼が椅子を立って取調室を出ていく。 「鹿内くん、一応、立原をマークしてくれ。それに立原の身辺も洗ってみたいな」 「わかりました」     5  二十日の午後六時、多門烈は、駅近くの喫茶店『るふらん』で渡辺友紀と会った。彼女は越智剛の恋人である。越智と同じ会社だから、連絡はすぐにとれた。 『るふらん』を指定したのは友紀のほうだった。読売ビルの一階にある小さな喫茶店で、BGMに低くシャンソンが流れているシックな店である。東京にはすでにこの手の喫茶店はなくなっている。地価の高騰で、営業できないのだ。  店に先に入って烈は待っていた。烈の前に立ったのは小柄な女だった。百五十センチほど。札幌に来て気付いたのだが、小さな体つきの若い女がよく目についた。むかし、東京でも、トランジスタ・グラマーという言葉がはやったことがある、と事務所の所長、つまり弁護士に聞いたことがあった。友紀はそのままのトランジスタ・グラマーだった。小さいのにぷりぷりした体つきをしている。  小さい女にしては胸の膨みも大きいし、尻の出っぱりもある。背が小さいから、ハイヒールをはいている。それでかえって小さく珍妙に見えるのだ。雪の札幌というのはハイヒールは危い。凍りついた雪に滑りやすいからだ。それでも何とか背の低いのをカバーしようとして、ハイヒールをはいているのらしい。顔はまともで、双眸はきらきらしていてきれいだった。  友紀が何かを知っている、というのではない。関係者には会って話を聞いておきたかったのだ。 「あたし、越智さんの恋人なんかじゃないわ」  と怒ったように言った。 「何度かつきあってあげただけなの。越智さんやさしいし、もちろん、いやじゃなかったけど」 「すると、恋人は別にいるわけですか」  そういうと、友紀はくすっと笑った。 「あたし、恋人なんて決めていないの。恋人と決めてしまうと、不自由でしょう。あたしいつも自由でいたい。そのほうがたのしいし、もちろん、あたしの時間が空いているとき、越智さんともつき合うけど」  このタイプの若い女は東京にもいる。遊び好きの女たちで、フィーリングが合えば、そのままホテルに入ってしまう。つまり、気分屋なのだ。 「越智さんの奥さんが殺されたの知っている?」 「知っているわ、会社でも話題になっているし、あたしも、まんざら知らないわけでもないし、警察も来たし」 「越智さん、奥さんの話、しなかったかな」 「いい奥さんだったみたい」 「他には」 「あの夜、十三日ね、あたし越智さんとホテルに行ったの。彼、奥さんが釧路に行って帰って来ないからって。あたしもちょうど体空いていたし」  少し待てよ、と思った。西署では越智剛のアリバイはない、と言っていた。越智がこの友紀とホテルに入ったのなら、アリバイはあるはずだ。 「何時までホテルにいたの」 「九時すぎだったかしら、あたし、一応は門限十時になっているから、もちろん、よく門限破るけど」  九時すぎに出て急行『まりも』が釧路を発する二二時二八分までに、釧路へ行く方法があるのか。もちろん、この時間では飛行機などあるわけはない。急行で七時間ほどかかるのだ。 「ねえ、多門さん、お酒のみに連れてって。それとも、他に用があるの」 「つき合ってもいいけど、札幌はよく知らないんだ」 「じゃ、あたしが案内する。ススキノに、あたしがよくのみに行くお店があるの」 「じゃ、お願いしようか」  珈琲代を払って店を出る。そこでタクシーを拾った。ススキノまでは距離がある。雪がなければ歩いていくところだが、彼女が滑って転んだりしては困る。もっとも歩くのには馴れているのだろうが。タクシーでいけば、ススキノはすぐだった。  バア『亜幌』と電光看板のある店だった。アポロと読むらしい。店は地下だった。ハイヒールをはいて歩くから、腰から尻がぷりぷりして見える。薄暗いカウンターバアだった。友紀は止り木にちょこんと坐る。  アベックが何組かいる。若い者の集る店のようだ。水割りをたのむ。おつまみに、友紀はピッザをたのんだ。腹もいくらか空いていたのだろう。 「みんなが、あたしをジロジロ見ているわ。いい男と一緒にいると女は得なのよ。あたしを羨しそうに見ている。自分の連れと比べているのよ。あたし、ここに越智さんと来ると、あまりいい顔できない。女って連れの男次第で、優越感持ったりひねたりするの」  それは男だって同じだろう、と言いかけてやめた。友紀はいい女とは言えないのだ。やはりいい女とは、ある程度背丈がなくては駄目なのだ。友紀は可愛いし、目もいいのだが。 「ここに、よく越智さんと来ていたわけだ」 「よくということないけど、ときどきね。あたし越智さんだけじゃないけど、あたしのボーイフレンドって、格好いい男っていないのよね、多門さんみたいな人だったらいいけど」  水割りのグラスの縁をカチンと当てる。 「でも、札幌には、いい男、いくらでもいるだろう」 「それがなかなかね」  と言って友紀は笑った。 「越智さん、奥さんとはうまく行っていたのに、どうしてきみを誘ったのかな」 「多門さんって東京の人よね」 「東京生まれの東京育ち、札幌は高校のときに何度か来たけど」 「じゃ、札幌の人って、わかんないんじゃないかな」  寺迫麻実と話していて、たしかに札幌の女はわからない、と思った。わからないのは女だけではなく、男もわからないのだ。  はじめて越智剛に会ったとき、友紀のような女がいるとは思わなかった。なるほど、女だけであるはずはない。土地柄というのか、男も烈にわからない部分があるのだ。  この北海道には、明治になって多くの人が本州から入って来た。明治の屯田兵《とんでんへい》もその一つだろう。極寒の土地である。穀物もできない、土地が痩せているためか、寒いためか。こういう土地に入ると、人も変ってくるのかもしれない。  それだけではない。島根県の出雲地方の女性はわりにおおらかで、女性たちがよく遊ぶと聞いたことがある。  土地によって女性が変る。女性が変れば男も変っていくのは当然だ。草加良彦は、札幌の女は自立心が強いと言っていた。札幌の女性はほとんど働いてもいる。自我が強く、離婚率も日本一高い。  この辺を考えないと、今度の事件はわからないのかもしれない。 「きみは、恋人ができると不自由だと言ったけど」 「ジェラシーの強い男がわりに多いのよね。他の男とつき合うなとか。あたしは恋人に女ができてもかまわないけど、あたしを優先してくれればそれでいい」 「もし、きみに子供がいるとして、その子供がいじめられて自殺したり、車に轢かれて死んだりしたら、相手を恨むのかな」 「あたし、子供がないからわからない」  烈は、立原恭平のことを考えていた。娘の奈保をはねた犯人がわかれば殺意を抱くだろうか。恨みの強弱は人それぞれだろう。他人に聞く前に、自分のことを考えてみるべきだろう。  自分に子供がいて、その子供が殺されたら? やっぱりその場になってみなければわからない。自分の子供がどれほど可愛いかは、子供を持ってみなければわからないことだ。それを友紀に聞いてみたって、答えが出てくるわけはないのだ。  友紀は水割りのお代りをした。ピッチが早い。酒は強いようだ。烈はぷっくり膨んだ友紀の胸を見ていた。体が小さいから大きく見えるのか。  友紀と別れてホテルにもどった。  烈は、夫の剛が倫子を殺したとは思っていない。だが、十三日に剛は札幌にいた。黒いコートの男にはなり得ない。それなのに、西署では剛にはアリバイがないと言っていた。どういうことなのだろう。アリバイは確実なはずではないのか。  そこで思いついた。釧路から札幌行きの急行『まりも』があるのなら、札幌発、釧路行きの『まりも』もあるのではないか、と考えた。  ホテルの部屋へもどってシャワーを浴びる。バスルームから出て来て、時刻表をめくりはじめたところで、電話のベルが鳴った。受話器を把《と》る。フロントの交換が「立原さまからお電話です」と言った。電話がつながった。 「はい、多門です」 「あんた、多門さんか」  立原の声ではなかった。妙に金属的な声だ。 「そうです」 「今度の事件から、手を引いてくれ」 「どうしてですか、ぼくはまだ何も掴んではいませんよ」 「そんなことはどうでもいい。手を引いて、早く東京に帰れ」 「あんたは誰だ」 「立原だよ。立原恭平だ」 「立原さんじゃないね、誰なんだ」 「立原だと言っているじゃないか。事件から手を引かないと痛い目にあうことになる、いいな」  そこで電話はプツンと切れた。  烈は受話器を一度置き、もう一度把って、0を回した。フロントが出た。 「六○四号の多門ですが、いま電話してきた立原という人、どんな声でしたか」 「はあ、どういうことでしょうか」 「声がヘンではありませんでしたか」 「いいえ、ふつうでしたよ」 「男の声ですね」 「はい、そうですけど」  礼を言って受話器を置いた。相手は烈と喋るときだけ、声を変えたのだ。  テレビのインタビューなどのとき、相手の声を確認させないために、声を変えてしまうことがある。変声機というのがある。テープレコーダーの速度を変えると声が変わる。それではない。ふつうに喋っていて声を変える機械がある。いまの相手はその変声機を使ったのだ。  電話の相手は、烈が東京から来ていることを知っていた。それはいい。警察でも知っている。何人かに名刺もやった。それだけではない。立原恭平の名前を使った。立原でなければ、立原を知っている男だ。  立原の家のダイヤルを回した。彼はすぐに電話に出た。 「多門さん、あんたのおかげで、西署に呼ばれましたよ」  わりに穏やかな声だった。 「いま、このホテルに電話しませんでしたか」 「いいえ、していません」  詫《わ》びを言って電話を切った。  この事件を調べられたくない男がいる、ということになる。誰だろう、と思ってみるが、わからない。立原が電話して来て、声を変えるわけはない。西署に調べられて迷惑した、と声を変えないで言えばいいわけだ。 「これは何だ?」  いまの声は犯人だったのか。どうして声を変える必要があったのか。内容は脅しである。犯人が脅しをかけて来た。それ以外には考えられないことだ。  もしかしたら、おれは犯人に都合の悪い何かを知ったのだろうか、と思ってみる。思いを巡らす。脳の襞《ひだ》の中まで掻《か》き回してみた、が何も出て来ない。  脅された、ではかえって引き下がるわけにはいかない。今日、渡辺友紀に会って知ったことは? 十三日の夜に友紀が越智剛とホテルに行ったこと、九時すぎにはホテルを出たこと。それくらいだ。これは完全なアリバイのはずなのに、西署では、彼にアリバイはないと言っている。  烈は調査能力について言えばゼロである。もっとも、事務所の仕事でいくつかの調査はしたことがあるが、探偵みたいなことはしたことはない。  素人である。もちろん素人でも何かを掴むことはできる。  そのとき、何となく時計を見た。九時を少し過ぎていた。 「まだ、時刻は早いな」  と呟き、草加家に電話を入れてみた。英子に六年前の事故のことを聞いてみたいと思ったのだ。 「英子さまは、お出かけでございます」  とお手伝いらしい女の声が言った。受話器を置き、ベッドのそばの椅子に坐って、キャスターに火をつけた。 「痛い目にあう、と言ったな」  調査を続けさせたくない、そう思う男は犯人だろう。釧路駅の黒いコートの男か。黒いコートの男が、立原のことを知っていた。もし立原だったら、立原と名乗るわけはないのだ。  何だか、わけがわからなくなって来た。  とにかく、わかりそうなことからやるしかない。時刻表をめくる。  札幌発、釧路行きの急行『まりも』があった。釧路から札幌へ向うのが�上り�で、札幌から釧路へ行くのは�下り�になる。  札幌発の急行『まりも』は二三時ちょうど発である。   札幌発    二三時○○分   千歳空港発  二三時三八分   追分     二三時五八分   新得      二時二六分   帯広着     三時一一分   〃 発     三時三五分   池田      四時一○分   浦幌      四時四○分   音別      五時二三分   白糠      五時四二分   釧路着     六時一○分  帯広で二十四分間止まるのが、最も長い停車時間である。 「二十四分か」  と呟いてみる。釧路発、札幌行きは、新得《しんとく》で三十六分間あった。時刻表をじっと見る。何も見えてこない。見えてこないのは、さっきの電話のせいだろう。頭の中が乱れていた。  寺迫麻実のマンションに電話を入れてみた。マンションの電話番号は手帳にメモしていた。呼出し音が鳴るだけで、電話はつながらない。眠っているのなら起きてくるだろう。  烈は受話器を置いた。麻実はどこかで酒を呑んでいるのだろう。英子もいなかった。すると二人は一緒なのか。  まだベッドに入って眠るには早すぎた。渡辺友紀をホテルに誘えばよかったのか、と苦笑する。     6  酒の酔いも浅かった。冷蔵庫を開けてみた。ビールでは酔いそうにない。ビン酒はある。ウイスキーの水割りをのみたいと思い、フロントに電話した。水割りセットを運ぶというので待った。  英子も麻実もいないとは、ついていない。越智剛や立原恭平を引っぱり出しても、つまらない。  ボーイが水割りセットを運んで来た。水割りを作ってのむ。  釧路発の急行『まりも』に寝台車が二輛ついている。札幌発の急行『まりも』にも寝台車はついているはずである。時刻表に寝台車のマークがついていた。  釧路発は二二時二八分、札幌発は二三時ちょうど。上り下りの列車はどこかですれ違うはずである。  上り下りの時刻表を比べてみた。   上り 新得着      二時一二分      〃 発      二時四八分   下り 新得着      二時二二分      〃 発      二時二六分  上りの『まりも』が、二時一二分に新得駅のホームに滑り込む。その十分後に、下り『まりも』が新得駅に入ってくる。そして四分停車して発車する。その二十二分あとに、札幌行き『まりも』が発車する。  越智倫子の死亡推定時間は、二時から三時の一時間だから『まりも』の上り下りともこの時間に入ってしまうわけだ。  すると、黒いコートの男は、越智倫子を殺してから下りの『まりも』に乗って、そのまま釧路に帰ってしまうことができる。  また、逆に下り、つまり札幌発二三時の『まりも』に乗って来て新得駅に停っている上り『まりも』に乗り込み、越智倫子を殺し、そのまま同じ列車で札幌にもどってくることができる。 「そうなのか」  だから、西署では、越智剛にアリバイがない、と言ったのだ。十三日に札幌にいても、その夜、二三時発の『まりも』に乗れれば越智倫子を殺せる、ということだ。  その場合、黒いコートの男はどうなるのだ。彼はただ寝台車で倫子を抱きたくて、『まりも』に一緒に乗り込んだ。そして新得駅で降り、下りの『まりも』に乗り換え、釧路にもどった。  それとも、倫子を抱いたあと、二番下の寝台に眠っていた。たしかに昼間からの情事で疲れていた。寝台で眠りこけていて、札幌近くになったところで倫子を起そうとカーテンを開けてみて、ビックリしてカーテンを閉じ札幌駅でそそくさと降りてしまった。  たしかに、黒いコートの男が眠っている間に、倫子を殺すことはできるだろう。その寝台さえ知っていればである。  上り『まりも』は、札幌着が六時五○分。下りの札幌発が前夜の二三時だ。午後十一時から午前六時五十分までのアリバイのある者など、ほとんどいないだろう。たいていの人は眠っている時間である。家族は証言能力はない。女とホテルに泊っていた、というのなら別だが。  たとえ、ホテルに女と一緒に泊っていたとしても、ホテルを抜け出して倫子を殺すことは可能だ。女が夜中に目をさます危険があれば、睡眠薬でものませておけばいい。  越智剛にアリバイがない、と西署で考えた理由もわかった。つまり、黒いコートの男が犯人と決ったわけでもない、ということになる。  烈は、ふーっ、と息をついて、水割りを作った。酔いが回っても、これではなかなか眠れそうにない。  上り『まりも』は新得駅で三十六分も停車していた。これが問題になってくる。その間に下り『まりも』が新得駅に着き発車する。このことは、時刻表を少し興味を持って見ればわかることだ。  釧路まで行かなくても倫子は殺せる。夫の剛にも妻を殺せる可能性はある。でも、あの男が倫子を殺す動機がない。もっとも動機というのはどこに隠されているのかわからない。  だけど、殺人では、犯人であり得ない者が犯人であったりする。加えて、剛は倫子が、十三日に釧路から札幌行き、急行『まりも』に乗ることを知っていた。  立原恭平はどうなのか。この立原には娘を殺されたという動機がある。本人は、越智倫子のことなど全く知らなかった、と言っている。もちろん、立原が倫子を殺したのなら、知らなかったというのも当り前だろう。  六年前の七月、奈保が車にはねられたとき、立原は、車の赤いテールランプしか見なかったと言っていた。もし、立原が走り去る車のナンバーを見ていたとしたらどうなるのか。彼は自分で娘の仇を討つつもりで、そのナンバーのことを警察に喋らなかった。  そして、そのナンバーの車を探すのに、六年間、いや五年かかった。五年かかって探し出し、英子か麻実に近づく。その車には三人乗っていたことを知る。倫子、英子、麻実だと知り、殺人計画を練る。  そして、やっと三月十三日に、十四日の午前二時に倫子を殺した。そう考えて無理だろうか。  恨みというのは、深ければ深いほど顔には出ないものなのか、烈には立原という男がそんなに執念のある男には見えなかった。  グラスの中の氷が、カラカラと音をたてた。人の胸の中は誰にもわからない。色に出にけり我が恋は、という文句がある。恋すれば顔色や態度に出るものだ、という意味だ。恨みは恋とは異なる。じっと胸の底に蹲《うずくま》っているものだろう。そして小さく青い炎を立てて燃えているものか。  衝動的な殺人、精神異常者の殺人以外には、恨みによる殺人が多いのではないかと思う。 「恨みか!」  と呟いてみる。もちろん烈は、人を殺すほどに恨んだことはない。娘が殺されるということが、どんなに悲しいものかも、わかっていないのだ。  草加良彦は、面白半分に、この事件を調査してみろ、と言った。もちろん、面白半分にやることではない。素人がこのような事件に首を突っ込むべきではないのだ、ということも烈には、何となくわかってきたような気がした。  このまま、東京に帰ろうか、とも思う。使った費用は仕方ないとして、残りを良彦に返せばいい。  また、グラスに氷片を入れ、ウイスキーを注ぎ込む。時計を見ると、やっと十一時になるところだった。札幌駅から釧路行きの急行『まりも』が発車する時刻だな、と思ってみる。  この事件から手を引け、と脅しの電話があったのは、八時半すぎだった。この電話も気になる。誰が、何のために。立原と名乗った。  それに、草加英子も、寺迫麻実もいなかった。これも、なんとなく気になった。  思いは、いろいろと混乱する。  もう一度、受話器を把り、麻実のマンションに電話を入れてみる。もしかしたらベッドで男と重なっているのかもしれない、と思ってみる。  呼出し音は鳴っているが、電話はつながらない。もし男に抱かれているのなら、電話には出ないだろう。十回の呼出し音を鳴らして受話器を置いた。  立原でなければ、脅しの電話を掛けて来たのは誰なのだ。変声機を使ったということは、烈の知っている男なのか。彼が全く知らない男なら、声を変える必要などないはずだ。札幌に来て、知っている男と言えば限られている。  グラスを手にして水割りをのむ。突然、電話のベルが鳴り、手のグラスがぶるると震えた。深夜の電話というのは驚く。受話器を把った。 「西方さまからお電話です」  とフロントが言った。電話はつながった。 「烈、まだ起きていたの」  有里子の声だった。 「いまどこなんだ」 「草加の家よ、さっき着いたの。すぐに烈のところへ行きたいけど、明日にする」 「そのほうがいいね」 「英子姉さん、いないらしいの」 「そうらしいね、ぼくも聞きたいことがあったので、さっき電話したんだけど」 「でも、こんなの珍らしいことじゃないらしいわ」 「まあ、そうだろうけどね」 「ねえ、事件、どこまでわかったの」 「まだ、たいしたことはわかっていない」 「でも、何かわかったんじゃないの」 「わからないことばかりだ」 「じゃ、わからないことがわかったってことね」 「明日は、ゆっくり会えるんだろう。そのときに話すよ」 「そうね、もちろん、明日は烈と一緒よ、あたしが行くまで、ホテルにいてね」 「待っている」  と言い、受話器を置いた。  時計を見ると、十一時をすぎていた。こんな遅くに着く飛行機があるのか、と時刻表をめくってみる。  東京からの最終で、羽田発二○時○五分というのがある。JAL527便だ。これが千歳空港に着くのが二一時三○分。空港から札幌まで四十分かかる。草加家に着くのは、だいたいこの時間だろう。  やっと事務所の休みがとれたらしい。有里子とは、もう永い間会っていないような気がする。有里子が札幌に来た、ということで少しは安心した。  四章 スマイルバッジ     1  多門烈は、電話のベルで目をさました。時計を見ると、八時半を少し過ぎていた。こんなに早く、有里子だろうか、と思ってみる。早くおれに会いたかったのだ、と思い、にやりとなる。受話器を把《と》った。 「西署の鳥越刑事がおみえです」  とフロントが言った。こんな朝早く、何の用だろう、と思う。電話に鳥越が出た。 「早いですね、何か用ですか」 「立原のことで、あなたに話があるんです」 「わかりました。少し待ってもらえますか」 「ロビーで待っています」  電話を切り、烈は浴衣を脱ぎ、シャワーを浴び、髭《ひげ》を剃った。なぜ、こんな早くに刑事が来るのか。仕度をして部屋を出た。こんな時間には喫茶室はやっていない。ホテルの中のレストランで朝食を食わしてくれる。チェックインしたときに、朝食のチケットを買うことになっている。朝食は七時半から九時ほどまでだ。  一階に降りると、フロントの前のロビーに鳥越がいた。歩みよって来て、 「朝メシはまだでしょう」 「ええ、電話で起されたのですから」 「だったら、朝メシを食いながら、お話ししましょう」  と言った。レストランに入る。そしてチケットを出す。朝は和食である。 「鳥越さんは?」 「わたしは食ってきましたよ。お茶でいいですよ。まあ、ゆっくり話しましょう」 「鳥越さんは、非番ですか」 「いや、これから署に出る」 「ご熱心なことですね」 「これで給料もらっているんだからね」  食事が運ばれて来た。ご飯に味噌汁、たくあんにノリ、そしてタマゴである。 「では、失礼しますよ」  と言って食事にかかる。 「多門さんは、立原恭平をどう見ていますか」 「どうって、わかりませんね」 「立原には、アリバイがあるようなないような」 「どういうことですか」 「十三日の夜、立原は女とホテルにいたんです。ホテルグリーン|3《スリー》です。チェックアウトしたのが、十時四十分。札幌発の急行『まりも』が発車するのが十一時。タクシーを走らせれば、何とか間に合います」  昨夜、烈は、時刻表で、上り下りの『まりも』は調べた。 「ホテルからタクシーで十分ですね」 「すると、アリバイはないじゃないですか」 「でも、立原は、ブラブラ、三十分ほど歩いたと言うんです」 「すると、アリバイの証人がいますね」 「一緒にホテルにいたのが、東田久仁子。ですが、この女がみつからないんです。立原もこの女の住所や連絡先は知らない。まあ、こんなことは珍らしいことはありませんがね。スナックやバアなどで知り合ってホテルへ行く。女のほうは、遊びだから、名前も連絡先も口にしない。東田久仁子というのも、本名ではないでしょう」 「どんな女でしょう」 「二十六、七というところかな、わりにきれいな女だったらしい。体が細くて背丈もある。バアで知り合ったと言っていました。多門さんは、立原をどう思います」 「どう、と言われても、ぼくにはわかりませんよ」 「立原のことを教えてくれたのは多門さんだから、その礼は言っておきますが」 「やはり、立原さんは容疑者ですか」 「容疑者の一人ということになりますね」 「すると、釧路の黒いコートの男はどうなるんです」 「立原が犯人とすれば、黒いコートの男は、ただの浮気の相手ということになりますね。越智倫子は、死体が発見されたとき、胸から股間まで肌はむき出しでした。さんざん抱いた女なら、下着ははかせないまでも、体くらいは隠してやるでしょう」 「もっともですね」 「これは捜査秘密ですが、彼女の首のあたりに、スマイルバッジが置いてありました」 「あの丸くて黄色く塗ってあって、笑顔が書いてある、あれですか」 「そうです。スマイルバッジは、大人はつけないものでしょう。子供のものです。六年前に死んだ立原奈保が胸にでもつけていたのかもしれない」 「すると、立原の復讐ですか」 「やはり、六年前の事故を誰に聞いたか、話してはもらえませんか」  烈は首を振った。 「もう警察には、わかっているんじゃないですか」 「話してもらえないと、また事件が起るかもしれませんよ」  鳥越は、掬《すく》い上げるような目で烈を見た。捜査本部では、越智倫子が立原奈保を車ではねた犯人かもしれない、とは推測しているだろうが、英子と麻実が車で一緒だった、とまでは考えていないようだ。  いまのところ、それを知っているのは、英子、麻実以外は烈だけであるはずだ。 「スマイルバッジですか」  と烈は呟くように言った。そのことは聞いていなかった。鳥越は捜査秘密だと言った。捜査秘密を洩らすということは、烈に何かのヒントをもらいたかったからか。 「申しわけありません、言えないんです」  麻実は、烈のために少しでも役に立ちたいと思って、六年前の事故を喋ったのだ。  烈だって、念のためにと思って西署に行き記録を見せてもらって、立原に会いに行ったのである。  捜査本部でも、立原が重要容疑者ということにでもなれば、烈も西署に呼ばれるだろう。また鳥越が一人でやって来たというのは、立原がまだ、ただの容疑者である、ということだろう。 「そうですか、今日はこれで帰ります。だが今度は捜査本部に来てもらうことになりますよ」  と念を押すように言って、鳥越は席を立っていった。  朝食をすませ、烈はキャスターに火をつけた。何となく気になった。倫子の死体のそばに、スマイルバッジがあった。犯人が置いていったのだろう。だとすれば、それなりの意味がなければならない。  烈も以前、スマイルバッジは見たことがある。小学校低学年の子供たちが、胸や帽子、あるいはランドセルに着けていたものである。立原奈保が胸につけていた可能性はある。いまでも、どこかの店、文房具屋などに売っているのだろう。そういえば、最近また流行《はや》りはじめたとかいう話をきいたようにも思う。  烈は部屋にもどった。有里子が来るはずである。上衣だけを脱ぎ、ハンガーに掛けて椅子に坐った。  立って受話器を把った。麻実のマンションに電話してみた。十回呼出し音が鳴っても出ない。電話を切り、ススキノのブティックのダイヤルを回した。二度の呼出し音でつながった。 「テラサコでございます」  と若い女の声がした。店員だろう。 「多門と申しますが、麻実さんお願いします」 「あの、ママはまだ出て来ておりませんが」 「出て来られたら、多門から電話があったとお伝え下さい」  と言って電話を切った。  麻実は、昨夜はマンションに帰らなかったのか。こういうことが度々あるのかどうかは烈は知らない。何だか、妙に気になった。  煙草に火をつけたところで、ドアがノックされた。ドアを開けると、そこに有里子が照れ笑いしながら立っていた。 「入ってもいい?」 「ああ、いいよ」  有里子は体を入れて来た。ドアを閉め、ロックすると、彼女は烈に抱きつき、唇を求めて来た。そして、ククッ、と笑って体を離した。 「ごめんなさい。休みがとれなくて」 「いいさ」  フロントで、部屋のナンバーを聞いて来たのだろう。たいていは、フロントから電話がかかる。宿泊者は、来訪者とはロビーで会うことになっている。有里子はそれを無視して来たらしい。 「ねえ、シャワーを浴びてもいい?」 「ああ、どうぞ」  有里子は、バスルームの前で下着姿になりバスに入った。前に有里子を抱いたのは、十六日だった。その日から、今日は六日目だった。  彼女は、裸身にバスタオルを巻いて出て来た。そして、テレビのスイッチを入れた。そして、烈のほうを向くと、 「ねえ、抱いて」  と言った。東京を離れて旅に来た。恋人がホテルにいる。抱かれたいと思うだろう。彼女は自分から烈の胸の中に入ってくる。唇を合わせる。背中を撫でる。バサッ、とタオルが足もとに落ちた。下は全裸である。背中から尻へ撫でる。当然の反応として、烈の股間は膨む。  有里子は、バスタオルを手にベッドに入った。烈は脱ぐ。裸になってベッドに体を入れる。彼女はしがみついてきて、くくっと笑った。  彼女の体を仰向けにして、乳房の膨みを手に包み込む。女の手が股間にのびて来て握った。有里子は大胆になりたいようだ。女の指が尖端に這う。乳房を揉みあげる。麻実の乳首ははっきりととがっていた。  有里子は毛布を剥《は》ぎ、体を起した。そして股間に顔を伏せてくる。もちろん、これまでにも何度もペニスを口にしたことはある。だが、はじめからというのは珍しい。ペニスを根元まで呑み込んでいた。烈はその口もとを見ていた。 「寺迫麻実《てらさこあさみ》さん」  とアナウンサーの声が聞えて、烈は首をひねった。テレビは十時のニュースをやっていた。     2  テレビニュースは、急行『まりも』で死体が発見されたことを告げていた。急行『まりも』は、六時一○分に釧路駅に着く。その寝台車の中で、車掌が死体を発見した。殺人事件である。左胸にナイフが突き刺っていた。  その被害者の名前が寺迫麻実、二十九歳。烈は、えっ、と声をあげた。 「どうしたの?」  と有里子が声をあげた。 「寺迫麻実さんが殺された」 「テラサコアサミさんって?」  彼女は裸のまま、テレビに向って坐った。 「草加英子さんの友だちだよ」 「えっ?」 「前の越智倫子さんも『まりも』の寝台車だった」 「連続殺人事件、というわけ?」 「そういうことになるね、英子さんは昨夜、家に帰って来た?」 「帰って来なかったみたい。だけど、外泊は珍らしいことではないらしいから」 「もしかしたら?」 「英子姉さんまで殺されている、と言うの?」 「そうでなければいいんだけど」  烈のペニスは萎縮していた。 「どうするの」 「札幌西署に行ってみよう」 「こんなことしていられないわね」  もちろん、有里子もその気はなくなっているようだ。ベッドを降りるとバスルームに走り込んだ。烈も下着をつける。バスから出て来た有里子はスーツを着て、 「少し待って」  と言い、バスルームの鏡に向って、髪を梳《す》きはじめた。 「まあ、急いでみても仕方がない」  と有里子に声をかけた。あわてて捜査本部に烈が駆けつけてみても、どうにかなるものではない。もちろん、行かなくても西署は烈に出頭を求めるだろう。  キャスターに火をつけて、椅子に坐った。 「麻実が殺された!」  と呟いてみる。そして、ちょっと有里子を気にした。麻実とは彼女のマンションで体を重ねたのだ。いくらかは有里子に対して後めたさはある。 「麻実が殺され、英子の姿がない!」  まず浮かんでくるのは立原恭平だ。立原が犯人だったのか、だとすれば、烈にも責任が出てくる。鳥越に麻実のことを喋っていれば、殺されなかったのかもしれないのだ。  麻実は、六年前に英子が子供をはねた、と言った。それだけだった。車には英子、麻実、倫子の三人が乗っていた。函館から帰る途中どこかでワインをのんだらしい。それで三人は逃げだしたのだ。  それで烈は、札幌西署で交通事故の記録を見てみようと思った。そして立原恭平を探して会った。 「これは、ただではすみそうにないな」  電話のベルが鳴った。受話器を把る。フロントが「西署の鳥越刑事がおみえです」  と言った。さっそくである。さっき鳥越は烈に会い、西署に出た。そのときには、殺人事件の情報は入っていたのだろう。すぐこのホテルに向った。そんな時間だ。 「有里子、刑事が来ている。きみはここで待っていてくれ」 「どういうこと?」 「もどって来たら話すよ」 「そうね、ここで待っている」  烈は、有里子を置いて部屋を出た。エレベーターを降りると、鳥越のほうから歩み寄って来た。 「多門さん、あんたがはじめに言ってくれていれば、第二の殺人は防げたかもしれない」  ホテルの表にはパトカーが待っていた。烈はそのパトカーに押し込まれた。まるで容疑者あつかいである。鳥越は後シートに烈と並んで坐った。 「もっとも、今朝、おれがこのホテルに来たときには、寺迫麻実は死体になっていたわけだが。一般人が事件に首をつっ込むと、ろくなことはない」 「そうは思いませんがね」  烈は鳥越刑事を見た。そのとき、鳥越の目が微妙に動いた。それは何だったのか。 「どういうことだね」  烈は、麻実と体を重ねた。だがそのことは誰も知らないはずだ。麻実が喋らない限りは、である。 「どうして、急いでぼくのところへ来たんですか」 「それは、あんたが事件の何かを隠しているからさ」 「ぼくが何を知っているというんです」 「きみは、交通事故の記録を見て、すぐに立原のところへ行った。立原奈保のことを誰に聞いたのだ?」 「立原奈保、とわかっていれば、西署の交通課になんかいきませんよ。直接、立原さんに会っていますよ」 「それはそうだが、事故のヒントを誰かに聞いたわけだろう」 「いま、テレビを見て、これから西署に行こうと思っていたところでした」 「誰に聞いた?」 「それは、捜査本部に着いたら言いますよ」 「それを早く言ってくれていたら」 「人にはプライバシーということがありますからね」 「きみ、これは殺人事件だよ」 「殺人事件とは関係ないかもしれないじゃないですか」 「それは、私たち捜査本部が決めることだ」  車は札幌西署に着いた。烈は捜査本部ではなく、取調室に入れられた。机の前にある椅子に坐った。ストーブに火はついているが寒い。オーバーコートは脱ぐ気にはなれなかった。  ドアの隅の机に若い刑事が坐っていた。その刑事にことわってキャスターに火をつけた。まるで犯人あつかいだ。だが、こういうあつかいも仕方がないのかもしれない。  麻実に聞いた翌日に、捜査本部に喋っていれば、麻実は殺されずにすんだのかもしれない、と悔んでみる。麻実だけに関ることではない。麻実と共に英子も、捜査本部に呼び出されていた。すると六年前の事故のことも喋らなければならなくなる。  すると、麻実からも英子からも、口の軽い男と蔑《さげす》まれるだろう。事故は時効になっているとしても。男としてはその辺が耐えきれない。だから喋れなかった。麻実と体を重ねた後めたさもあった。  石渡主任に鳥越刑事がついて入って来た。 「多門さん、立原は逃げましたよ」 「え?」 「昨夜、寺迫麻実を殺して、そのまま逃げたんでしょうね」 「やはり、立原さんだったんですか」 「そうとしか考えられんでしょう。今朝、釧路署から連絡があって、立原の家に駆けつけたときは、家の中は空っぽだった」  昨夜、九時半すぎに立原に電話したときには、立原はふつうの声だった、と言おうとして言葉をのみ込んだ。寺迫麻実が乗る急行『まりも』は一一時発である。それまでにはゆっくり時間がある。あのとき、立原が麻実を殺そうと思っていたとは思えない。だが、それを口にすれば、どうして電話したと聞かれる。立原の名前で脅しの電話が入った、と言っても信用してもらえないだろう。 「多門さん、みんな話してもらいますよ。第一に、あなたは得体の知れない人だ」  この事件の捜査を草加良彦に頼まれた、ということは口にしたくなかった。 「急行『まりも』殺人事件を、越智剛にたのまれた、というのは嘘なんでしょう」 「嘘でした」 「きみ!」  と鳥越が体をのり出すのを石渡が止めた。 「聞きましょう」 「実は、草加英子さんに頼まれました」 「なんだって?」 「草加英子さんの弟、良彦はぼくの親友です。ぼくは法律事務所で働いていますが、検事志望で、司法試験に四度落ちています。いまは遊んでいるのも同じです。それで英子さんは良彦を通して、越智倫子さんの事件の調査をたのんで来たんです」  喋りながら、あとで英子に詫《わ》びなければならんな、と考える。 「それで?」 「それで札幌にやって来ました」 「六年前、英子さんは越智さんと寺迫さんを乗せてドライブに行き、子供をはねたんです。その子供の親がずっと自分たちを探していて、まず、越智さんを殺したのじゃないかと英子さんに言われ、五十八年七月の事故記録を見せてもらうために、この西署に来て、立原さんを知ったんです」 「ふむっ」  と石渡は唸った。そのことを十九日に言ってくれていれば、とは石渡は言わなかった。  捜査本部では、釧路駅の黒いコートの男を気にしすぎていた。それで立原のことは深く追及しなかった。その責任は捜査本部にもあるわけだ。 「立原は張込ませていたんだけどね」  捜査本部が、越智倫子が、英子、麻実と親友だったことを、もっと重視していれば、烈の話を聞かなくても、注意はできたはずである。  倫子が一人殺されただけでは、殺人の動機はわからない。 「越智さん、寺迫さん殺しの犯人は立原ですか」 「いまはそう考えるしかないね。寺迫麻実は裸でこそなかったが、同じ種類のナイフで左胸を刺されていた。同じ犯人と考えるしかないね」 「しかし、立原さんの三月十三日のアリバイはあったんでしょう」 「アリバイはあるとは言いきれない」 「札幌発一一時の急行『まりも』に乗ればですか」 「もちろん、それくらいは、誰でも考えることだ」 「新得駅で、上り『まりも』に乗り換えて越智さんを殺す」 「そういうことだ」 「では、釧路の黒いコートの男はどうなるんです。ただの越智さんの情事の相手ですか」  石渡は黙った。 「黒いコートの男は掴めたんですか」 「まだ、わからん」  逆に烈が石渡に訊問する形になった。 「きみ、多門くん」  鳥越が声をあげた。 「草加家に電話連絡したが、英子さんは昨夜から家には帰っていない。帰ったら連絡をくれることになっているが」  まだ連絡がないのだ。石渡は、英子も殺されているのではないか、と不安がっている。 「立原の手配はしている」 「もう少し、黒いコートの男を重要視してみる必要があるんじゃないですか。立原が黒いコートの男でないことは、はっきりしているんでしょう」 「たしかに、立原は夜まで札幌にいた。下り『まりも』には乗れたかもしれないが、黒いコートの男にはなれない。そうか、きみは草加英子さんに頼まれて調査していたのか」  草加一族は札幌では知られている。素人ではあるが、一応法律事務所の調査員である。依頼者の名前は隠すのが常識である。また依頼者の利益を守らなければならない。六年前の交通事故のことを烈が喋れなかったのは当り前、と石渡は解釈したようだ。  それで石渡の烈に対する態度も変っていた。また、依頼者が草加英子ということで、納得した。 「越智倫子と寺迫麻実にはもう一つ共通点がある。スマイルバッジだ」 「スマイルバッジ? 越智さんの首のあたりに犯人が残していったというあれですか」  石渡は、ちらっと鳥越を見た。鳥越は知らん顔をしていた。 「きみはそれを?」 「鳥越さんに聞きました」 「二人のそばにバッジがあったということは、立原を犯人と考えるしかない」 「立原さんに、そのバッジのことを聞かれたんですか」 「いや、まだ捜査秘密だったのでね」 「おれが多門さんに話したのはさっきです」  鳥越は弁解するように言った。 「立原奈保が車にはねられたとき、そのスマイルバッジをつけていたとは限りませんよ」 「どういうことだ」 「犯人が立原さんを犯人と思わせようとしている」 「なんだって」  と鳥越が叫んだ。 「立原さんが、もし犯人だとしたら、そんなもの、殺した死体のそばに置くでしょうか」 「多門くん、もう少し喋ってくれないか、何でもいい」 「もしかしたら、越智さんを殺した犯人と、寺迫さんを殺した犯人は別かもしれない、と考えてみたんです」 「そんな馬鹿な」  と鳥越が叫んだ。 「立原さんを犯人と考えてみましょう。まず上り下りの違いはありますが、同じ急行『まりも』です。それにナイフも同じだった。死亡推定時刻も同じころではないんですか。つまり、新得駅で細工ができるわけです。札幌から新得駅まで行って、寺迫さんを殺し、上りの『まりも』に乗ってもどってくる。加えて、死体のそばにスマイルバッジがあった。何もかもそっくりです。立原さんが、娘のために三人を殺したいとします。目的は復讐です。恨みでしょう。寺迫さんは別のところで殺したほうが楽だと思いますけどね」 「二つの殺人事件が起れば、われわれはまず、事件の共通点を探す」  鳥越が言った。 「警察がそう思うことを知っていての犯行ではないでしょうか」 「例えば?」 「黒いコートの男です」 「でも多門くん、スマイルバッジのことは、マスコミには洩らしていない。誰も知らないことだ」 「犯人は知っていますよ。自分が置いたのだから」 「きみが言っているのは立原じゃないのかね」 「違いますね、立原さんは犯人ではないと思います」 「立原に会った印象かね」 「はい。立原さんが殺したのなら、バッジは置かないと思います」 「黒いコートの男かね」 「ぼくには、黒いコートの男の役割がよくわからないんです」 「ただの情事の相手だけだったではすまんのかな」 「越智さんと情事のためだけに会うのだったら、自分が札幌まで来るべきでしょう。なにも釧路まで呼び出すことはない。釧路まで呼び出したのは、急行『まりも』の中で殺すためです。越智さんはよろこんで釧路に行っている」 「だが、越智倫子の身辺にはそんな男の影はないんだ」 「どこかにあるはずです」 「われわれの捜査が不足だと?」 「そういうことになりますね」 「だが、越智倫子には、立原以外には殺される動機がない」 「もちろん、ぼくにもまだ見えてきません。でも、必ずあると思います」 「きみ、殺人事件は推理小説じゃないんだ」  とまた鳥越が怒鳴った。 「黒いコートの男は、釧路で探し、一度は男が一人浮かび上がった」 「わかったんですか」 「朽木高史という男だったが、結局は違っていた。連れの女が越智倫子ではなかったのでね」 「朽木高史ですか」 「何か思い当るのかね」 「いいえ、何も。でも、その朽木高史は確認がとれたのですか」 「いや、名前も住所も、でたらめだった」 「もう少し、黒いコートの男を追ってみてはどうですか」 「釧路署に頼んである。だが、こちらから刑事を出す余裕がない。捜査員の数ではない。費用がないんでね。きみが立原のことを教えてくれた。それで立原に集中しようと思ってね」 「いまは、黒いコートの男は、無視しているんですか」 「釧路署に頼んではいるがね」 「釧路署では自分のところの事件ではないので、ひたすらになれない」 「そんなこともないがね。きみが立原のことを教えてくれなかったら、もう少し黒いコートの男を追っていたんだが。列車殺人事件のつらいところだ。殺人現場が移動する。発生は釧路なんだから、釧路署であつかったほうがいいのだが、列車到着駅の管轄《かんかつ》になる」 「でも、寺迫さんの死体が釧路に着いたから釧路署の管轄になるわけでしょう」 「そう、釧路署とうちの署との合同捜査になる。今日か、明日になるだろうが、釧路から捜査員たちが来る」 「札幌からは行かないんですか」 「二人が行くことになっているがね、事件が長くなれば、自分の署にもどることになる」 「捜査とは、そんなものですか」 「そんなものだ。費用は限られているのでね」  警察捜査の利点は、捜査員の足である。しかし出張するとなると費用がかかる。費用には限度がある。十日も二十日も泊り込んで捜査するというわけにはいかないのだ。 「凶器のナイフの出どころはみつからないんですか」 「金物屋に売っているナイフでね、道内の警察には手配してあるがね、これがもし、東京や大阪で買われたナイフとなると、手のつけようがない」 「もっとも、殺人事件の時効は十五年ありますから、あわてる必要はないんでしょうけど」 「多門くん、それは皮肉かね」 「皮肉ですね」 「捜査本部は、一ヵ月くらいしか保たないね。あとは迷宮入りだ」 「でも、立原はもっと早くみつけられると思いますよ」  鳥越が言った。鳥越は立原を犯人にしてしまいたいようだ。 「今度は、越智さんのときと違って、ザーメンや陰毛はなかったんですか」 「情交のあとはなかった。指紋を調べているんだけどね。越智倫子のときの指紋の中には立原の指紋はなかったようだ」 「拭《ぬぐ》いとったんですよ」  鳥越が言う。 「立原さんの血液は何だったんですか」  石渡に代って鳥越が言った。 「越智倫子の体内にあった精液の血液型O型と同じだった。これだけ揃えば、犯人は立原以外にはあり得ない。犯人は立原だ」  鳥越は、どうしても立原を犯人にしてしまいたいようだ。 「多門くんは、これだけ証拠があっても、立原ではない、と言いたいようだね」 「そうです。立原さんではありません。犯人が立原さんだという証拠が揃いすぎているとは思いませんか」 「きみ、警察は証拠主義だよ。証拠が多すぎるなんてことをよく言えるな。証拠があれば犯人だよ」 「A型の陰毛はどうなるんですか」 「それは他の人のものがまぎれ込んだんだ」 「だったら、どうしてO型の精液だけを残していくんです」 「それは」  と言いかけて鳥越は止めた。 「まあ、今回はこれまでにしましょう。多門さん、何かわかったら教えて下さいよ」  石渡主任は、机に両手をついて立ち上がった。     3  多門烈は、西署を出るとホテルにもどった。部屋に入ると、有里子は浴衣姿でテレビを見ていた。 「どうだったの?」 「捜査本部では立原を犯人だと思い、手配した」 「立原って?」  そうだった。有里子は昨夜札幌についたばかりで事件のことはくわしくは知らなかった。烈は事件の推移を簡単に説明した。 「スマイルマークのバッジね、まだどこかで売っているのかしら」 「売っているんだろうな」 「ナイフのこともわからないの」 「北海道以外から持ち込まれたのなら、わからないだろうな。メーカーは違っても、かなりの会社で作っているらしいからね」 「有里子は、いつまで休めるんだ」 「三日間休みをとって来たの、土曜日はお休みだから、次の日曜日までね」 「すると、あと五日は休めるわけだ」 「あたしの有給休暇よ」 「有里子に頼みたいことがある」 「何なの」 「寺迫麻実のことを調べて欲しいんだ。男との交際は派手だったらしいから、どんな男とつき合っていたのか」 「でも、寺迫さんは、その立原という男に殺されたんでしょう」 「気になるんだよ」 「烈はどうするの?」 「おれは釧路に行ってみたいんだ」 「あたしも行きたい」 「明日、釧路から電話するよ、草加の家に」  有里子は、うんと言った。 「わかったわ、その代り、抱いて」  と鼻にかかった声で言った。 「それじゃ、シャワーを浴びてこよう」  烈はバスルームに入った。バスタブに湯を注ぐ。湯がたまる間、シャワーを浴びる。  立原が犯人か、と思ってみる。捜査本部では、立原が犯人という鳥越に反対した。それをそのまま認める気にはなれなかった。立原にも倫子を殺すチャンスがある。下り『まりも』に乗って新得駅で上りに乗り換えれば、立原にも殺すチャンスはある。  だが、そうなると、黒いコートの男はどうなるんだ。ただの情事の相手だったのか。釧路で倫子と別れたのならそれもわかる。だが、倫子と一緒に上り『まりも』に乗っているのだ。車掌が座席に置いた黒いコートを見ている。  黒いコートの男が二番の寝台で眠っているところを、倫子がナイフで殺された。その可能性はないわけではないが、かなり無理なことだ。性交を終ったあと、眠っている倫子を刺すことはできるとしても、立原はその寝台をどうして知ったのか、ということをまず問題にしなければならないだろう。倫子が電話で知らせでもしなければ、二号車の一、二番ということはわからない。  乗客は眠っているのだ。寝台の中はライトを消して暗くしてある。カーテンを覗いて寝台の一つ一つを確かめるわけにはいかないのだ。たとえ十三日の急行『まりも』の寝台に乗るとわかっていてもだ。  倫子を殺したのは、黒いコートの男でなければならないのだ、と烈は思っている。  ドアが開いて、有里子が顔を出した。 「ねえ、いいでしょう」 「いいよ、おいで」  と言うと、彼女は入口で浴衣を脱いでバスに入って来た。バスタブは浅い。烈が入っても、やっと胸のあたりまでしか湯が来ない。有里子はタブの中に入って来て、烈に背中を向けて膝の上に尻をのせてきた。そして、ふふふ、と笑い、背中を烈の胸に押しつけてきた。  こういうことはしない女だ。これまでは常に受け身だった。これだけ行動的になるのは旅の解放感からだろう。女というのはTPOで変ってくる。また、女は気分屋だ。  烈は両手で二つの乳房を包み込んだ。それをゆっくりと揉みあげる。さきほどは中途半端だった。烈が帰るまで有里子は体をくすぶらせて待っていたのだろう。烈の手で火をつけて欲しいのだ。  指の股に乳首を挟みつける。もっとも挟みつけるほどには乳首も大きくない。それでも乳首を刺激してやると子宮につながるのだ。 「ねえ、寺迫麻実に会ったの」 「英子さんにも会った。情報が欲しいからね」 「麻実さんとはお酒のんだの」 「ああ、酔いが回って、六年前の事故を話してくれたんだ」 「そう」  と有里子は言っただけで、それから先は追及しなかった。麻実と寝た、と思っているのか。もちろん現場を見られたわけではないので否定しなければならない。  麻実の体には、有里子とは違った甘美さがあった。年齢の違いだけではない。経験の違いでもない。麻実の男好きの性格だろう。歓喜を追うのにけんめいになるが、男をたのしませようとする心掛けもある。  倫子の死体を見た鳥越刑事は、もったいないと思ったという。麻実も死ぬにしてはもったいなかった。いい女だったのだ。おそらく女盛りの入口だったはずだ。まだ十年くらいは盛りでいられたはずだ。  有里子は息を弾ませていた。手を胸から腹、そしてはざまへと滑り込ませる。 「あ、あーっ、烈」  と声をあげ尻をひねった。大きく息を吸うと胸が更に膨んでくる。シャワーの取手を手にして、有里子の肩のあたりから掛ける。シャワーの噴出力は女にとっては刺激になる。 「ねえ、烈」  と言った。男の指はクレバスの中にあった。彼女が背中を反りかえらせて呻いた。     4  有里子は札幌駅まで送りに来た。札幌発一七時五七分発、釧路行き特急『おおぞら11号』である。この列車は釧路に二二時三九分に着く。 「たのむよ、寺迫麻実のこと」 「ええ、できるかどうかわからないけど」  改札口を出て振りむくと、有里子は手を振っていた。烈は列車に乗り込んだ。  捜査本部では、倫子、麻実を殺した犯人は立原だとしている。あるいはそうなのかもしれない。立原が犯人だとすれば、烈は動きようがない。すべて捜査本部にまかせておけばいいのだ。  烈が動くとすれば、別の線を調査するしかないのだ。別となれば、黒いコートの男しかない。麻実の事件は釧路署で捜査する。捜査本部はできているはずだ。釧路署では黒いコートの男は掴んでいないだろう。  麻実を殺した犯人は、おそらくは、新得駅で、下り『まりも』から上り『まりも』に乗りかえ札幌にもどっているだろうからである。あるいは、そのまま釧路まで行ったのか。  烈は千歳空港駅で降りた。そして空港に向った。全日空70便、一八時四○分発の飛行機に空席があった。それに乗って羽田に着いたのは二○時一○分。羽田から草加良彦のマンションに電話を入れたが、良彦はいないようだった。  烈は一度自分の家にもどった。そして机の引き出しの中を掻きまわした。家から良彦に電話すると、電話はつながった。 「多門か」 「さっき電話したがいなかった。相変らず遊んでいるのか」 「学校が忙しいんだ。どうだ、マンションに来ないか、調査の報告も聞きたいしな」 「これから行く」  烈は下着とワイシャツを取り換え、家を出た。良彦のマンションに着いたのは十一時すぎだった。 「やあ、入れよ」  と良彦が言った。マンションは2DKだが広い。一室は寝室になっている。ドアのむこうだから1DKのように見える。 「ビールでいいか」  と缶ビールにグラスを持ってきた。ビールも缶のままのむよりグラスに注いだほうがうまい。  ガラスのテーブルの前の椅子に坐った。医学書が多いのは医学生だから当然だろう。棚には、ずらりと小説本が並んでいた。意外に小説が好きなのだ。高校のころからそうだった。男一人の部屋なのに、部屋の中はわりに片付いている。この部屋に女を連れ込むこともあるのだろう。 「どうだ、調査のほうは」 「昨日から英子さんがもどっていない。もうもどっているかもしれんが」 「そうか、電話入れてみよう」  と良彦はテーブルの上に置いたワイヤレスの電話機を手に把《と》りダイヤルを回した。電話はすぐにつながったらしい。二言、三言、話して、電話を切った。 「まだもどって来ていないらしい。まあ、あいつは遊び好きだからな。どっかに旅行でもしているんだろう」 「この秋に結婚するそうだな」 「英子に会ったのか」 「ああ、材料を仕入れないとな」 「それでどうなんだ、調査のほうは」 「良彦も、もう知っているだろう。寺迫麻実さんが殺された」 「えっ、それは知らんぞ。いつだ?」 「死体が発見されたのが、二十一日、そう今朝だ」 「でもどうして寺迫麻実が」  麻実は言っていた。何度か良彦に誘われたことがあると。 「それはまだわからんが、西署の捜査本部では容疑者として立原恭平という男を追っている」  ここでも事件の推移を語らねばならなかった。良彦は、フンフンと聞いていた。 「良彦は、麻実さんとは寝ていないのか」  彼は唇をゆがめて笑った。 「多門、おまえはどうなんだ。六年前の事故を聞き出したのなら、おまえ、麻実と寝たんだろう。あの女は、ただでは喋らんよ」  良彦にはわかるようだ。否定してもはじまらない。烈はそれを認めた。良彦は、低い声で笑った。 「あの女、よかっただろう。おれにもチャンスはあった。だが、おれにはそのとき別の女がいた。暇がなかったのではない。チャンスがなかったのだ。ちくしょう、死んでしまったのか。その前に一度抱いてみたい女だったな」 「おまえ、倫子さんとはあったのだろう」 「むかしな、それも麻実が喋ったのか。あの女、男に惚れると、何でもぺらぺら喋る。倫子も好きものだけど、たいしたことはなかった。でも年上というのはやりやすい。無責任になれるからな」 「刑事が倫子さんを見て、惜しい、もったいない、と言っていた」 「まあ、それなりにはいい女だったがな」 「おれは、倫子さん殺しと麻実さん殺しは別のような気がする」 「どうしてだ」 「麻実さん殺しは、倫子さん殺しを真似《まね》たものだ」 「すると、犯人は二人か」 「そういうことになるな」 「倫子は、立原という男に殺されたんだろう。だから立原は逃亡した。殺していなければ、逃げることはないわけだ」  その辺を良彦と言い合ってもはじまらない。 「まだ、いろいろと疑問はある」 「麻実殺しの犯人は、当りがついているのか」 「わからないな」 「また、札幌にもどるのか」 「ああ、事件はまだこれからだろうし、有里子も来ている」 「なるほど、アベック調査か、仲のいいことだな」  良彦は妙な笑い方をした。気になる笑い方だ。女は彼のこのような笑いに魅かれるのかもしれない。 「倫子は利口な女だったよ。どんなに歓喜しても、男にのめり込むような女ではなかった。その点、麻実は違ったな。あの女はとことんのめり込んでくる女だ。多門、おまえは麻実が死んで助かったんじゃないのか。会いたいと思えば、東京までだって追いかけてくる」  烈はそんなことは思っていない。まだ女には甘いところがある。良彦のように女の分析はできない。 「多門、面白いビデオを見せてやろう」 「また、裏ビデオか」 「いや、生ビデオだ」  ビデオテープを入れてスイッチを入れる。しばらくコマーシャルみたいなシーンがあり画面が出てきた。  男が女をベッドに押しつけ、スカートの中に手を入れた。女はしきりに抵抗している。止めて、放して、そんなのいやよ、と声をあげている。たしかに生ビデオだ。作られたものではない。それだけに生々しい。 「裏ビデオなんていうのは、もう面白くない。やはり、セックスシーンは生がいい。これは純生だ」 「悪趣味だ」 「もともとおれの趣味は上品ではないさ」  女は男の手に股間をさぐられていた。はざままでは見えないが、白い太腿の動くのがエロチックだ。ビデオカメラは、天井のどこかに固定されているようだ。またカメラの動かないところがシリアスだ。  女の反応が少しずつ変っていく。女の抵抗が弱くなっていく。女は触られて感じていくものだ。男の妄想は女にはない。  先に白いパンティが脱がされ右足首に引っかかったままだ。女の抵抗が弱くなると、男は女の着ているものを一枚一枚脱がせていく。女は、この男をどうしてもいやだというのではないようだ。  スリップを脱がされ、ブラジャーを外される。女は両手で二つの乳房をおおった。このときには全裸になっていた。男の手が女の手を払いのける。そして乳房を男の手が掴む。  まだ諦めきれないで、女はときどき、止めて、とか、いやよ、とか口走り、男の腕から逃れようとするが、それは女の媚態に見えた。  この女は以前からこの男を嫌いではなかった。だが挑まれたときにはびっくりし、そして抵抗した。だが、わりに簡単に男を受け入れる気になったようだ。  女をその気にさせ、交わるまでの男のテクニック講座みたいな光景である。烈にしてからが、なるほど、こういうやり方もあったのか、と思わせるほどだ。理にかなっていた。  女が男を嫌っていて、死にものぐるいに抵抗するというのなら別だが、そうでなければ、少しでも男を許す気があれば、男は容易に女をものにできるだろう、というビデオの進行だった。  百二十分ビデオらしい。男と女の淫らな姿態がさまざまに展開する。飽きさせない進行である。  女は全く男の動きに合わせていた。こういうのを二つが一つになったというのだろう。呼吸も合っていた。いわゆるレイプというのではなかった。女は声をあげて腰をくねらせ、そしてオルガスムスに達した。男はどうやら女を征服してしまったようだ。  生ビデオの名作だろう。 「なかなか、いい出来ではないか」  と烈は唇をゆがめて笑った。 「おれの自信作だな」  男はなかなか終らなかった。俗に四十八手という。からみのポーズである。四十八手まではいかないが、かなりのポーズを見せて、 「好き、好きだったのよ、愛しているわ」  と女がとぎれとぎれの声で言った。 「もう、その辺で切ってくれ」 「最後まで見ないのか。見るに耐えんか」 「ああ、マイッタ」 「意気地のない男だな。おまえはもっと剛胆な男だと思ったがな」  良彦は笑いながらスイッチを切った。 「もう少しのめよ」  と良彦は、グラスに氷片を入れ、少量の水を足して掻き回した。一つのグラスを烈の前に置き、一つのグラスの水割りをのむ。 「いいか、多門、女をあまり理想化するな。女なんてこんなものだ」 「おれは、もう少し女に期待していたけどな」 「それは錯覚だよ。表むきはしとやかだけどな、一皮剥けばこんなものだ。以前に、あたしは会社で歩く道徳といわれているの、と言った人妻がいた。亭主と子供が二人いて、自分はお堅い真面目な女だと思い込んでいた。その女なんか、めろめろになった。その人妻のビデオもある。見るか」 「いや、止めておこう」 「そうだな、止めておいたほうがいいな。女は浅いところでつき合っていたほうがいい」  良彦は口を開き、声もなく笑った。     5  二十二日、水曜日である。  烈は、羽田発九時二五分の全日空741便に乗った。釧路空港に着くのが一○時五五分である。空港から、札幌の草加家に電話してみた。だが、有里子は外出したあとだった。  釧路空港から、釧路駅までは四十分ほどかかる。とりあえずは駅に向った。昨夜は自分の家に帰って寝たが、良彦に見せられたビデオが気になった。それほどに数多く女を知っているわけではないので、女という生物《いきもの》はわからない。良彦は、女は知れば知るほどわからなくなると言った。  もちろん、女はビデオを撮られていることなど知らずに、良彦にうながされるままポーズをとっていた。ビデオカメラは全く気にしていなかったのだ。 「あいつは悪党だ」  と思ってみる。悪党ではなく、女たちにとっては悪魔かもしれない。たしかに、札幌から出て来て東京の高校に入って来たときから、女の噂は絶えなかった。  それでいて、一度で医科大に合格したのだから頭もいいのだろう。  釧路駅についた。改札の駅員に、十三日の急行『まりも』の改札をしたのは誰かを聞いた。駅員も、十三日の『まりも』の列車内で殺人事件があったことは、まだ記憶に新しい。改札係が他の駅員を呼んだ。そして改札口を入り駅員室に入った。何人かの駅員が烈のところへ集って来た。 「この写真の人に見覚えはありませんか」  と聞いた。駅員はそれぞれに反応を見せた。駅構内のキヨスクの女の人にも写真を見せた。黒いコートの男は、必ず改札口を出ているはずである。ホームには何人かの駅員が立っている。これらの人たちも、黒いコートの男を見たはずである。  駅前からタクシーに乗り、釧路パシフィックホテルと言った。このホテルは幣舞橋《ぬさまいばし》のそばにあり、盛り場にも近い。  ホテルに入り、ツインの部屋をキープした。どうせ有里子が来るはずである。部屋に入り、窓辺に立つ。釧路川が見えていた。多くの漁船が舫《もや》ってあった。幣舞橋も見えている。  草加家にまた電話を入れた。英子は二晩帰って来ていない。明日まで帰って来なければ、父草加亮三が捜索願いを出すと言っている、とお手伝いに聞いた。有里子もまだもどっていない。ホテルの電話番号を告げて外に出た。  まず、このパシフィックホテルに、写真を見せた。フロント係は首を振った。釧路中のホテルを訪ねてみるつもりである。  札幌西署の捜査本部では、黒いコートの男はほとんど捨て、立原恭平を追っている。また釧路署では、寺迫麻実殺し事件を捜査している。西署に頼まれた黒いコートの男までには手が回らなくなっていたのだ。麻実のときは黒いコートの男はどこにも現われていない。  歩き回って一息入れようと、末広町の喫茶店『仏蘭西茶館』に入った。赤レンガ造りのしっとりと落ちついた店である。  札幌西署、釧路署の二つの捜査本部は、それぞれの捜査方針で捜査をしている。釧路署の刑事四人は札幌で寺迫麻実の身辺を洗っている。あるいは、その中に烈の名前も出てくるかもしれない。一夜だけだったが麻実とはベッドを共にしたのだから。  麻実との一夜も激しかったが、ビデオの男と女ほどではなかった。麻実はそれほど多くのラーゲを使う必要はなかったのだ。いろいろ形を変えなくても、彼女は満足したはずだ。  ふと思いついて赤電話に立った。そして西署の捜査本部に電話を入れ、石渡主任を呼び出してもらった。 「ああ多門さんか」  と気軽に応えてくれた。 「まだ立原さんはみつかりませんか」 「立原はまだだが、面白いことがわかった。寺迫麻実は覚醒剤を使っていたそうだ。家宅捜索してわかった。ブティックも厳しくて、草加英子さんからも、かなり借金していたようだな」 「それは知りませんでした」 「われわれは、覚醒剤も追っている。今度の二つの殺人事件は、覚醒剤がらみかもしれんからね」 「立原さんのほうは?」 「それもやっている。多門さんは、いまどこにいるの」 「釧路に来ています」 「まだ黒いコートの男にこだわっているのかね」 「ええ、もう少しこだわってみたいと思いましてね」 「何かわかりましたか」 「まだ、いまのところは、何も」  西署の捜査本部と釧路署で当っている。それで何も掴めなかったのだ。素人が一日や二日歩いてみて何かわかるはずはない。石渡主任はそう言いたいところだろう。 「しっかりやってくれたまえ。何かわかったら教えて下さい」 「わかりました」  と言って電話を切った。警察と烈とでは、方針が違う。だから捜査の邪魔をすることはない。それだけ捜査主任が文句を言うこともないわけだ。  席にもどり、冷えた珈琲をのんだ。もう一杯珈琲のお代りをしてから、キャスターに火をつけた。 「覚醒剤か」  と呟いてみる。麻実が覚醒剤を使っていたとは知らなかった。彼女は烈の目に素肌をさらした。なのに注射のあとには気がつかなかった。  やはり、ブティックを経営していくのは厳しいのだろう。忙しくて、とはじめに電話したとき麻実はそう言った。だから店はうまくいっているのだと思い込んでいた。店一軒やっていくのはきついのだろう。それでふと覚醒剤を注《う》ちだした。  これで事件は、もう一つ複雑になった。石渡主任は、二つの殺人事件は覚醒剤がらみかもしれない、と言った。倫子もこれに絡んでいたのか。倫子は、麻実が覚醒剤を使っていたのは知っていたはずだ。  もちろん、倫子は解剖された。だが覚醒剤は検出されなかったのだろう。そのことは聞いていない。  たしかに覚醒剤は金がかかる。ブティックの儲けも覚醒剤に消えていた。ブティックでは生地などを仕入れなければならない。その金がなくて英子に金を借りたのか。いくらぐらい借りたのかは、石渡主任は言わなかった。  いまだ英子は家にもどっていない。もしかしたら、遊び回っているのではなく行方不明になっているのではないか。  運ばれて来た珈琲をのむ。  英子が行方不明になる理由がどこにあるのだろう。  十七日に英子と酒をのんだ。はじめは烈をベッドに誘うつもりだったようだが、酔ったから、と言って帰っていった。  この秋に、草加病院の医師と結婚するのだ、と言っていた。それで少しは身をつつしもうと考えたのか。その辺もわかるような気がする。  英子について、わかっていることだけを考えてみる。  ㈰六年前に、英子はワインをのみ、車を運転していて、立原奈保をはね、奈保は死んだ。  ㈪英子は、麻実にお金を貸していた。  ㈫英子は、この秋に結婚することになっている。  この三点から、何か図式は出てこないか、と考えてみる。子供をはねたのを知っているのは、倫子と麻実の二人だけである。たとえ時効になっていたとしても、大病院の令嬢である、世間には知られたくないだろう。新聞社に知られれば、記事としてあつかわれるかもしれない。  英子が、倫子と麻実を殺した、ということはないのだろうか。麻実は覚醒剤の常用者だったようだ。二人はいつか、ポロッと六年前のことを誰かに喋るかもしれない。現に麻実は烈にそのことを喋った。それで立原恭平が浮かび上がってきた。  英子が、倫子と麻実を殺した。もちろん容疑者としては上っていないから、アリバイを問われることはない。  黒いコートの男は、西署の捜査本部で考えているように、ただ倫子の情事の相手だった。英子だって、札幌発二三時の急行『まりも』に乗って、新得駅で釧路発の『まりも』に乗り換え、寝台の中で倫子を殺すことはできるだろう。  テレビのニュースを見て、まず西署に電話してきたのは英子だと聞いた。英子はもしかしたら『まりも』の倫子の寝台のナンバーは聞いていたのかもしれない。そして英子は倫子が釧路で誰に会うかも知っていた可能性はある。  十三日の夕方、英子は倫子のところに電話してきて、越智剛に、釧路へ行ったことを聞いたと言っている。この電話はカムフラージュではなかったのか。  また、スマイルバッジを倫子の死体のそばに置いたのは、立原の犯行にみせかけるためだ。  麻実は、六年前の七月、と言っただけで、立原の名前は知らなかった。英子ならば、自分がはねた子供がどうなったかくらいは、調べて知っていたと思われる。  スマイルバッジというのも妙に気にかかる。黄色い丸いバッジは、笑っている。倫子の死体のそばに、この笑っている顔のバッジを置いたというのも、どこか不気味である。  倫子の死体は、瞼は閉じていたが、浴衣は両手を通していただけで、肌のほとんどをさらしていた、と聞いている。浴衣の前くらい合わせてやればいいのに、と思うのは男の感覚で、女にはそういう思いやりはないのかもしれない、と思ってみる。  もちろん、英子が犯人とした場合である。そうなると、立原恭平はすでに殺されているのかもしれない。立原を自殺にみせかけて殺すことができれば、英子の計画は完全ということになる。英子は、立原の自殺体が出ることを待って、どこかに身を隠しているのか。  立原恭平は、倫子を殺していない、という思いが烈にはある。だが、立原には、はっきりしたアリバイはない。捜査本部では立原を容疑者として追っているのだ。  スマイルバッジは、麻実の死体のそばにも落ちていた。落ちていたのではなく、犯人が置いていったのだ。  烈が立原に会ったときには、スマイルバッジのことは知らなかった。だから、奈保が死んだとき、スマイルバッジをつけていたかどうかは聞いていない。  英子は、奈保の死を調べていてスマイルバッジのことを知ったのか。奈保をはね、車を急停車させた後、車を降りて走ったのは麻実だった。麻実は奈保の体にスマイルバッジを見て、英子に告げたのか。  麻実は英子から、お金を借りていた。借りたのではなく、もしかしたら奈保のことで、英子を強請《ゆす》っていたのではないのか。また倫子も英子を強請っていたとは考えられないのか。  そこに一つの殺人の構図は考えられる。     6  喫茶『仏蘭西茶館』を烈は出た。そしてまたホテル回りをはじめる。釧路駅構内にある観光案内所に行き、まだ訪れていないホテルをメモする。  黒いコートの男と倫子が数時間を過した場所は、旅館ではない。またラブホテルではない。倫子は男から電話を受け、メモもしていない。わかりやすいホテルだったはずだ。それも駅からそれほど遠くない。いや少しは距離はあったかもしれない。  情事である。ムードは欲しいだろう。すると釧路湾の見えるホテルか、釧路川のほとりのホテルか。烈が部屋をとった釧路パシフィックホテルなど、最適だと思うのだが。  夕食をすましてホテルにもどった。一人では酒を呑みに行く気になれない。だが、まだ寝るには時刻が早すぎた。草加家に電話してみようと思うが、何度も電話するのも気がひけた。有里子が来る気になれば来るだろう。ホテルと電話番号は、知らせておいたのだから。  一人というのは退屈なものだ。部屋の中を歩きまわり、窓から外を眺めたりする。椅子に坐っては煙草を吸う。  英子を犯人として一つの構図を考えてみた。考えられる構図ではある。だが、烈には不満だった。その構図の中に黒いコートの男は入ってこない。ただの倫子の情事の相手だけだったら『まりも』に乗る必要はなくなってくる。特に寝台車の寝台でセックスしたかったというだけではないだろう。  事件の関係者の中から、この黒いコートの男だけが外れている、というのは気に入らないのだ。  七時二十分近くだった。ドアがノックされた。ドアを開けると、そこに有里子が立っていた。 「ちょうど、『おおぞら7号』に乗れたの」  と言った。この『7号』は、午後二時一一分に札幌を出て釧路には午後七時○七分に着くのだ。  有里子は烈に抱きついてキスを求めた。舌を絡ませながら、良彦の部屋で見たビデオを思った。女というのはさまざまな顔を持っているものだと思う。 「外へ出ようか」  彼女は、ウン、と言った。  部屋をロックし、ホテルを出る。むこうに幣舞橋《ぬさまいばし》が見えている。橋のほうへ歩く。有里子が腕を絡めて来た。まだ夜気は冷めたい、が風はほとんどない。橋にさしかかった。  釧路駅からまっすぐ北大通がのびてこの幣舞橋にかかる。駅から歩いて二十分くらいか。橋の下を流れるのは旧釧路川だそうだ。釧路川というのは別にあるらしい。釧路湾の入口近くだ。橋のむこうは官庁、ビジネス街である。橋の向いの斜面には、大きな花時計が、夜でもライトの中に見える。もっとも花の少ない季節である。  橋の上には四つの女性像が立っていて四季を象徴しているのだそうだ。川岸が海へ向って無数の漁船の灯りが見える。 「やっと烈と旅に来たような気持よ」 「ぼくも釧路ははじめてなんだ」 「でも、今日一日歩いたんでしょう」 「今日は仕事だ。明日はあちこち行ってみよう。やはり、一度は急行『まりも』に乗ってみないとな」 「明日の『まりも』だったら、ずいぶん時間があるわ」  冬に向う十月ころには、この橋に霧がいっぱい立つという。霧の幣舞橋だ。カップルにはムードがあるのだろうが、車はスピードを落して走ることになる。  幣舞橋をもどってくる。北大通がまっすぐに釧路駅まで続いている。その右側が盛り場である。末広町、栄町である。小さな炉ばた焼きの店が多い。その中の『河童』という店に入った。焼き物でも材料は豊富である。安いから、サラリーマン、OLなど若い者がいっぱいだ。  燗《かん》酒をもらう。焼き物はいろいろ頼むよりはとコースをたのむ。松、竹、梅とコースがあるのだ。焼くけむりで店内は黒びかりしている。そのあたりが趣きがある。酒が運ばれてきて、有里子が酌をする。 「それで、何かわかったかな」 「麻実さんのブティックは弟さんが継ぐそうよ。弟さんの奥さんはデザイナーだって」 「それはよかった」 「麻実さんには、いろんな男から電話があったって、店の女の子が言っていた。烈の名前も出たわ」 「一度だけだよ」 「他には?」 「ええと」  と有里子は、ハンドバッグから手帳を出した。 「藤岡、田中、鳥越……」 「鳥越?」  西署の刑事鳥越のことだろうか。鳥越という名前は珍しいが、札幌にはあるのだろう。 「麻実さん、かなり遊んでいたみたいだから。男は、良彦兄さんのように、いろんな、たくさんの女と遊びたいらしいけど、女もたくさんの男の人がいたほうがいいのかしら」 「さあ、ぼくにはわからないけど、有里子はどうなんだ。女の有里子にはわかるんじゃないかな」 「女は、一人男がいればいいんじゃないかしら。あたしは烈がいればたくさんよ」 「でも男だって、たのしみ方はそれぞれ違うんじゃないかな」 「女は一年に子供は一人しか生めないけど、男は一年に十人だって二十人だって生ませられる。その辺が男と女の生理の違いじゃないかしら」 「すると麻実さんは例外だったのかな。英子さんも麻実さんほどじゃないけど、いろいろいたんじゃないかな。倫子さんだって、一年に一度か二度は、浮気の相手がいたみたいだ」 「北海道の女の人って違うみたい。あたし東京生まれだから」 「でも、お母さんは札幌の人だろう」 「でも、母に父以外の男がいたなんて考えたことない」 「北海道の女性がみんなそうだってことではないんだ。気が強くて自立心が強い。だからそんな風に思えてくるんだろうな」  有里子の目つきが不安定だった。  五章 殺しの構図     1  釧路は、人口二十一万四千の都市である。道東最大の都市というが、札幌の人口百五十万に比べると小さい。  明治四十一年、釧路新聞の記者になるべくここを訪れた石川啄木は、  さいはての駅に下り立ち  雪あかり  さびしき町にあゆみ入りにき  とうたっている。当時は魚の匂いただようさびしい小さな港町だった。しかしその後次第に発展して来た。北洋漁業の基地であり、また、大平原と原生林を生かし、製紙、製材、各種水産加工の工場も多い。どこか冷めたい暗い青空がある。そこが釧路の魅力なのかもしれない。  二十三日、多門烈は西方有里子と共に、釧路パシフィックホテルを出た。有里子は、どこかボーッとしたような顔をしていた。  烈は、昨夜は、いつになく有里子を激しく求めた。いつもはわりに淡白な烈だったのだ。意識して、おのれをふるい立たせた。  幣舞橋《ぬさまいばし》を渡る。有里子は腰をふらつかせていた。目はとろんとして、顔はしまりがなくなっている。彼女は烈に腕を絡ませてきた。まるで烈に体を支えてもらうようにして歩く。  十三日の夜の越智倫子がこうでなかったか。高校の友だちの橋立陽子は、倫子の体の芯は抜けていたと言った。  有里子はこんな女ではなかった。もちろん恋人同士だからデートすればホテルにも行く。二時間の休息時間というのがある。その二時間の間に、烈は放出するのは一回だけということもあった。多くても二回である。有里子はそれで足りていた。オルガスムスに達しても達しなくても、彼女は不満を洩らしたことはない。  タクシーを拾い、観光だから、どこかに連れていってくれ、と言った。はじめは米町《よねまち》公園である。公園というほど広くはない。釧路港を見下ろす高台にある。公園というよりは展望台である。ここには啄木の碑がある。  しらしらと氷かがやき  千鳥なく  釧路の海の冬の月かな  二十六歳で死んだ石川啄木は、北海道のあちこちに歌を残している。この啄木がポルノ小説を書いたことは、あまり知られていない。自分の性欲の強さに悩んだ男である。夜毎のように妻の体を求めた。そして、おれはセックスするだけのために妻と結婚したのだろうかと悩む。烈は、そのことを知って、改めて啄木は男だったのだな、と人間らしさを知った。  美しい歌の裏にはどろどろした性欲があったのだ。そのことを有里子に話すと、 「ウソー」  と言った。  いまの若い女たちに人気のある幕末の新選組一番隊長、沖田総司は死ぬまで、女の肌には触れなかった。だから女たちに人気がある。  女たちは恋とか愛とかはよろこぶが、そこにセックスが出て来ると眉をひそめる。もちろん抱かれると歓喜する。男は妄想力がある。魅力的な女を見れば抱きたいと思う。  女は体に触れられないと、その気にならない。セックスについては、男と女では大きな違いがあるのだ。 「石川啄木って、そんな人だったの」  有里子は信じたくない様子だ。ロマンチックということとセックスということは、女の頭の中では次元が異なる。 「車にもどろうか」  と言って有里子を先に歩かせた。その後姿を眺めた。腰の動きが妙なのだ。股間に何か挟まったような歩き方だ。その腰の動きを、妙なものを見る目で、烈は見ていた。  タクシーは、官庁街、ビジネス街を抜ける。その背後に春採《はるとり》湖がある。標高二メートル、海跡湖である。以前は海だったところだ。  緋鮒《ひぶな》の生息地として、天然記念物に指定されている。いまは水の汚染で少くなっているという。湖岸にはアパートなどの建物が目立つようになっている。西岸一帯は春採公園になっていて、市民の憩いの場である。夏の間は、湖面にボートが浮かぶのだ。  そこでタクシーを捨てた。  湖の北端にはチャランケチャシがある。チャランケは、アイヌ語で�談合�とか�裁判�のことである。チャシは砦《とりで》を意味するようだ。  空気は冷めたいが、風がないのでそれほど寒くはない。まだ釧路の春は遠いが、陽の当るところに来ると暖い。  公園のベンチに並んで坐る。有里子の顔を覗き込むと、照れたようにうつ向く。体には昨夜の感覚が残っているのだろう。男はたいてい、体液を放ったときに女を忘れてしまうものである。 「昨夜は、激しかったね」  いやっ、と言って体を烈にぶっつけてくる。 「あんな激しい烈ははじめてだった」 「旅の解放感だろうね」  彼女は体を寄せてくる。恋人同士だから、当然と言えば言える。 「また、有里子を抱きたくなったな」 「エッチ!」  と言って媚《こ》びた目で睨んだ。『まりも』が出る夜の十時半までは間がもたない。と言って、チェックアウトしたのに、またホテルに入るわけにはいかない。もっとも札幌のパークホテルはキープしたままだった。  エッチと言いながら、ホテルに誘えばついてくるだろう。  釧路駅にもどった。駅近くで昼食をすまし、予定を変更して、釧路発一三時三○分の特急『おおぞら10号』に乗った。『まりも』までは待てなかった。だらだらとした時間を過すには、若すぎた。若い者はせっかちである。 「たのしかった」 「そう、事件のことは忘れてしまいたくなる」 「釧路で、何か掴んだの」 「思っていた通りさ、たいしたことはない」  急行『まりも』に乗ってみたって、何かがわかるわけはない。  この『おおぞら10号』は一八時二一分に札幌に着く。昼間は五時間で着くわけだ。  有里子は、左の窓辺に坐っている。窓外に流れる景色を見ていた。烈はスカートの上から手を腿に乗せた。若い女の腿はむっちりとしている。スカートの下にはスリップがある。二枚の布を透して、肌の温かさが伝わってくる。  黒いコートの男は寝台車の中で越智倫子を抱いた。狭いベッドの中で、列車が走る震動が体に伝わってくるだろう。どういう感じなのだろう、と思う。たしかに寝台車の中で一度は女を抱いてみたいと思うだろう。 「いやーっ、欲しくなっちゃう」  と言って有里子は、腿の上の烈の手を押しのけた。     2  立原恭平の住いのある本町は、札幌駅の東の方向になる。  同じ二十三日、午後二時ころ、横田吉郎は立原の家の前を通りかかった。立原と同じ不動産屋である。横田は四十二歳になる。前を通りすぎて、ふと足を止めた。立原が行方不明になっていることは知っていた。  この家はどうなるのだろう、と思った。立原の妻|通子《みちこ》とは、まだ離婚はしていない、と言っていた。別居中だったのだ。苗穂《なえぼ》駅前の店も閉まったままである。  二十坪ほどの平家《ひらや》である。土地は五十坪ほどあるようだ。家屋は金にはならないが、土地は売れる。国道二七五号線のそばだから、住宅としては向いていない。何か商売をやるにはいい場所かもしれない、と思ってみる。  玄関の前に立って戸を叩いた。もちろん、返事はない。また家の中に人の気配はなかった。もどろうとしたが何となく気になり玄関の戸に手をかけた。思ったより簡単に戸が開いた。 「あれ!」  と横田は思った。 「立原さん、いないの」  と声をかけながら、玄関に足を踏み入れた。この家には情報交換で何度か来ている。人の気配はないし、また家の中は薄暗く冷めたい。だが、何となく気になった。あとで考えてみると、立原恭平が呼んでいたのだ、と思った。  横田は、誘われるように、靴を脱いで上がった。部屋の隅に机と椅子があり、部屋の中央には電気炬燵が据えられていて、一方に石油ストーブがある。頭上には蛍光灯があった。その炬燵と机の間に黒いものが横たわっていた。昼寝しているのか、と思ったが、この寒さの中で昼寝はできない。横田は蛍光灯を引っぱった。またたきして蛍光灯が点く。 「ううっ」  と唸った。そこに立原が横たわっていた。横田は立原に触れようとはしなかった。死んでいるのは一目でわかったのだ。膝がガクガクと笑った。  部屋の中を見回し、黒い電話機を見つけた。受話器を把《と》ろうとして手を止め、ハンカチをとり出して受話器に巻きつけて握ると、一一○番を回した。  事情を告げた。交換がそこを動かないで下さい、と言った。それで横田は、玄関の上り框《がまち》に坐った。 「そうか、立原さんは死んでいたのか」  と思う。もちろん、この家は調べられ、刑事が張り込んでいたのだろうが、張り込みがなくなって、もどって来たのだ。  立原は、まだ三十五、六だったはずである。六年前に一人娘が死んだことは聞いていた。 「ツイていない男だったんだな」  と呟き、横田は思わず身震いした。寒さもあった。背後に死体があることも気になっていた。パトカーが着くのが遅かった。こういうときには時間が長く感じられるものだ。  何台かのパトカーが着いた。刑事が三人走って来た。巡査が数人表に立った。パトカーの気配で近所の人たちが集ってくる。表にはロープが張られるのだろう。 「あなたが、横田さん」 「はいそうです」  あとから更に二人の刑事が来て、四人が家の中に入った。 「わたしは鳥越といいます。はじめから話してくれますか」  横田は名前と住所と職業を口にした。 「この立原さんの家の前を通りかかったら、妙な気がして来てみたんです。表戸は開きました。中に入ってみて、電気をつけたら、立原さんが転がっていたんです。一目で死んでいるとわかりましたので電話しました」 「立原さんとは?」 「商売仲間で、三度ほどこの家に来たことがあります」 「それだけですか」 「それだけです」 「あなたが触ったところは?」 「この玄関の戸と、電気の紐《ひも》、そして電話はハンカチで握りました。それだけです」  鑑識課員が五、六人入った。 「鳥さん」  と言って、石渡主任が立ってきた。 「第一発見者の横田吉郎さんです」 「そこに、少し待っていてもらえませんか」  石渡に言われて、横田は、はい、と言った。死体を発見したのだ、すぐには帰してくれるわけはない。 「鳥さん、どうやら自殺したようだな」 「自殺ですか」 「遺書がある。筆跡鑑定にまわすことになるだろうが」  封筒の中から、便箋をとり出した。もちろん二人とも手袋をしている。 「主任、青酸死ですね」  と鑑識係長が言った。石渡は便箋をまた封筒にもどして死体に歩み寄った。 「死んでから、二十五時間から三十時間くらいは経っていますね。はっきりしたことは解剖の結果待ちですが」 「すると、昨日ですね。昨日の午前中になりますか」 「そのあたりでしょう」  炬燵の上には、缶コーヒーがあった。この白い封筒は、そのそばにあったのだ。鑑識課員たちが、あちこちの指紋をとっている。  机の上には書類が積まれていて、小さな額ぶちに入った幼女の写真が立てかけられていた。これが立原奈保だろう。その写真のそばに、黄色いスマイルバッジが置いてあった。石渡はそれを手にした。越智倫子と寺迫麻実の死体のそばにあったものと同種のものである。 「自殺ですか」  石渡が聞いた。 「遺書の筆跡鑑定結果でしょうが、いまのところは、自殺に見えますね」  もちろん、まだ自殺と決定するには早すぎる。だが、捜査員たちには自殺のイメージが強くなる。  越智倫子と寺迫麻実を殺し、逃れられないと知って自殺した。 「自分の家にもどってくるとは思いませんでしたね」  と鳥越が言う。 「自分の家で死にたかったんだろう。立原の奥さんを呼んでおいてくれ」  別の刑事が受話器を把る。 「西署に来てもらえ」  と刑事の背中に声をかけた。 「女がいたようですね」  と屑籠の中を調べていた鑑識が言った。  押し入れを開け、詰め込まれた布団をとり出す。石渡は炬燵の上にある缶コーヒーを手にした。中にはまだ半分の量が残っているようだ。缶の底まで覗いたが、細工したようなあとはなかった。 「死体は運び出していいですか」  と係長が言う。 「よろしくお願いします」  と石渡は答えた。何となく部屋の中を見回す。五段の本棚があった。不動産に関する書物、六年前のものと思われる子供の本がある。石渡は一冊一冊本を探った。日記のたぐいのものはないか、と思ったのだ。  女がいた。妻とは別居しているのだから、女くらいいるだろう。そう、立原には東田久仁子という女がいた。この女の正体はまだ知れていない。そのことを追及する前に彼は行方をくらましたのだ。 「東田久仁子か」  と呟いてみる。もっとも石渡の頭も、自殺に傾いているのだ。だが、見落してはならない。 「これが、立原が持っていた手帳です」  と鳥越が黒革のわりに厚い手帳をさし出した。背広の内ポケットに入っていたものだ。立原は自分の家にもどって来て、遺書を書き上げてから、青酸入りの缶コーヒーをのんだものらしい。炬燵も石油ストーブも消えていた。覚悟の自殺とみえた。ストーブの中には、まだ半分ほどの灯油が入っている。それに部屋の中はわりに片付いていた。  机の上には、遺書を書いたあとの便箋とソフトペンが残っていた。自殺には違いないようだが、どこかに何か見落しているような気になっていた。 「布団のシーツに、女の陰毛が数本あります。シーツは新しいですから、最近のものでしょう」  と鑑識が言う。あるいは自殺する前に女を呼び、最後の交りを持ったのか。屑籠の中にも、交わったあとを始末した紙が入っていた。おそらくは、一回分だろう、と思われる。  死ぬ前の性交にしては少ない。あるいは、女が帰るときに持って帰ったのかもしれない。  前にも書いたが、男と女の陰毛は、触っただけで判るものらしい。鑑識のベテランならわかるだろう。 「鳥さん、自殺かね」 「自殺でしょう。遺書もあることだし」  自殺である証拠が揃いすぎているような気がする。死体は担架に乗せられ運び出される。札幌医大病院で解剖されることになる。  石渡は、多門烈を思い出していた。多門はもう少し�黒いコートの男�にこだわってみると言った。黒いコートの男は、一体何だったのか、東田久仁子もただの浮気の相手だったということになるのか。  石渡は、改めて封書の中の便箋を出して開いた。わりにびっしりと書き込んである。封筒の表には『まりも』殺人事件捜査主任殿、とあった。つまり石渡宛である。     3 『前略  おかげさまで、私の復讐を終えました。これでやっと奈保の仇を討ってやることができました。お礼を申し上げると同時に、三人もの人命を奪いましたこと申しわけなく思っています。  奈保の仇と言いましても、三人の女を殺したのですから、おめおめ生きのびようとは思いません。もし、三人の女が捕まったとしましても、おそらくは微罪ですんだことでしょう。それが私には我慢なりませんでした。  車のブレーキの音を聞いて外にとび出したとき、奈保が倒れ、奈保をはねた車はちょうど走り去るところでした。私はその車のナンバーの下二桁の数字を見たのです。それを警察には喋りませんでした。私の手で処刑するつもりだったからです。  以来、私は車を調べはじめました。素人の私がやることです。時間がかかってしまいました。五年と数ヵ月、私はやっとその車を探し当てました。  車の持ち主がわかり、その女をしばらくは尾行しました。そして草加英子、寺迫麻実、越智倫子の三人をつきとめました。この三人とも運転免許証を持っているのを知りましたが、そのとき誰が運転していたのかはとうとうわかりませんでした。  でも逃げ去ったということは三人同罪です。だから、三人とも殺してしまおうと考えたわけです。三人を殺して奈保が成仏するのかどうかは知りません。やはり三人とも処刑しなければなりません。一人でも残しては不公平だからです。  人を殺すということは、たとえ娘の復讐であったとしても無惨なことです。やはり、三人を殺したのだから、私も死ぬべきだと思います。  まず、私は越智倫子に狙いをつけました。殺す機会を狙っていました。だが、一人殺したところで捕まっては、あと二人に対して不公平です。三人を殺すまでは捕まることはできません。それで慎重にならざるを得ませんでした。  十三日、偶然でした。私は越智家に電話し、倫子のお母さんに、彼女が釧路に行き、釧路から急行『まりも』で帰って来ることを聞きました。  もちろん『まりも』のどの車輌に乗っているかはわかりません。探すより仕方がありません。釧路発の急行『まりも』は新得駅で三十六分停車し、その間に札幌発の『まりも』が新得駅に着き発車します。もちろん、このことは、捜査員のみなさん、ご存知のことと思います。  私は七時ころ東田久仁子とホテルグリーン|3《スリー》に入り、十時四十分にチェックアウトし、札幌駅に向い、急行『まりも』に乗りました。キップはもちろん昼の間に買っておきました。  長くなりますが、いま少しご辛抱下さい。もちろん、うまくいくとは思っていませんでした。新得駅で上り『まりも』に乗り換え、車内を歩きました。一号車、二号車が寝台車で、三号車、四号車が指定席、五号車が自由席です。三、四、五号に倫子の姿は見当らない、とすれば寝台車です。二号車の後から前へ歩いていて、二号車の端に来たとき、寝台の中で、女のアノ声を聞きました。それでカーテンの隙間からそっと覗いてみたら、全裸の女の上に男がのしかかっていました。寝台の中には灯がついていたのです。  運がいいというか、あるいは奈保が導いてくれたのかもしれません。寝台車の一番寝台の後はトイレになっています。私は二人の行為が終るのを待ちました。  終って男が二番寝台に移り、かなり疲れているようで、すぐに寝息が聞えて来ました。私は一番寝台のカーテンをめくりました。女はうとうとと眠りかけていました。そこを馬のりになって、ナイフを左乳房に刺し込みました。左手で女の口を押えていました。  私をはねのけようとしましたが、すぐにぐったりなりました。それで彼女の首のあたりにスマイルバッジを置き、五号車の自由席にもどったのです』  字はしっかりしていて、走り書きしたものではない。文字はえんえんと続いている。  次は寺迫麻実殺しである。  二十日には、西署で立原を呼んでいる。そのあとに立原は、麻実が釧路へ急行『まりも』で行くことを知った。釧路へは、釧路のブティックのオーナーと会うためだった。そのことは麻実のブティックで聞いたらしい。  三人を殺したとなれば、英子もどこかで殺されているということになる。長い遺書の中に、草加英子の名前を探した。遺書はあとでゆっくり読ませてもらうとして、先に英子のことを知りたかった。 『最後に、草加英子のことを申しあげます。捜査主任殿は、最もこのことが気にかかっておられるのでしょうから。  三月二十日、西署から釈放され、寺迫麻実が十一時の急行『まりも』に乗ると知ったあと、まだずいぶん時間がありました。警察も私がやったことに気付きはじめている。早くけりをつけてしまわなければならない。  私は高槻《たかつき》啓介の名前で英子を呼び出しました。高槻は英子が昨年までつき合っていた男です。お調べになるとわかると思います。私は他に三人の男の名も調査している段階でわかって来ました。  呼び出した場所は中島公園です。すでに暮れかけていて、人影はありませんでした。英子はのこのこと出て来ました。高槻にまだ未練があったのだと思います。  私は英子に後から襲いかかり、紐で首を絞めました。しばらくはジタバタしておりましたが、すぐにおとなしくなりました。  英子の胸にスマイルバッジをつけてやり、二個のブロックをロープで体に巻きつけ、池の中に投げ込みました。浮かび上がってくることはないでしょう』  ここまで読んで、石渡は「おい」と鳥越を呼んだ。 「主任どうしました?」 「草加英子は、中島公園の池に沈んでいる。西署の署員を集めてくれ。それだけでは足らんな、道警にも応援を頼んでくれ」 「中島公園ですか」 「立原の遺書にそう書いてある」 「池は広いですよ」 「広くても池の底をさらうんだ」 「わかりました」  と鳥越が電話にとりかかる。  石渡は、立原は自殺に決りだな、と思った。中島公園の池の中から草加英子の死体が上がればである。  鑑識係長にあとをたのみ、石渡は刑事たちを連れて中島公園に向った。     4  中島公園は、南十一条西四丁目にある。公園に広い池があり、春になると池面にボートが浮く。園内には、スポーツセンター、プール、日本庭園、遊園地、天文台、野外音楽堂、百花園、国重要文化財である豊平館、八窓庵《はつそうあん》がある。  この八窓庵は、小堀遠州の茶室を移し換えたものだという。  公園はすでに日暮れが近かった。公園の入口までパトカーを乗りつけ、石渡は車を降りた。公園内に入って歩きはじめる。散策に来る人は多いとみえ、遊歩道の雪は払われていた。 「今日は無理かもしれん」  と呟いた。池を一周するのにも、けっこう時間がかかるのだ。  二人の刑事をその場に置いて歩き出した。体に二個のブロックを結びつけて沈めた、と書いてあった。  二十日に殺して沈めたのなら、すでに四日経っていることになる。池の水面は氷が薄く張っていた。後から鳥越刑事が追って来た。 「草加家には知らせなくていいんですか」 「死体が上がってからだ」 「ほんとに草加英子を殺して沈めたんですかね」 「そう書いてあった。そう思うしかないだろう」  沈めた場所は書いていない。池全体を探せということだろう。一周して来たときには、百人ばかりの警官が、岸に近いあたりの氷を割って、探しはじめていた。  道警から、刑事課長が姿をみせた。 「石渡くん、草加英子の死体が池に沈んでいるというが、ほんとかね」 「立原恭平の遺書にそうありました。たとえなくてもさらってみなければならんでしょう」  もちろん英子は行方不明のままである。 「結局、立原の復讐だったのかね」 「いまのところは、そう思うしかないでしょうな」  地下鉄中島公園を出たところが、公園の入口になっている。だが、この公園には、どこからでも入れるのだ。立原が高槻の名前を使って英子を呼び出した。だが、この入口近くとは限らない。公園のどのあたりに呼び出したかは書いていなかった。 「日本人の恨みは淡白と聞いているが」 「それも人によるんでしょう。執念深い男がいてもおかしくはないですよ」 「女三人も殺すとはね」  道警でも、当然、この事件のことは知っていた。石渡は道警から出張して西署に来て、捜査主任をつとめている。また、草加亮三からは、失踪届と捜索願が出されていた。 「大詰めだな、石渡くん」 「死体が上がればですけどね」  あたりは暗くなっている。これ以上の捜索は無理だった。明日朝から改めて捜索を行うとして、警官たちに引き上げを命じた。  そのまま西署にもどった。北野署長が石渡を待っていた。捜査本部長は北野署長である。彼は署長室に入った。 「さっき、草加病院の院長から電話があったよ。噂は走ったらしいな。令嬢英子さんは、ほんとに公園の池に沈んでいるのかね」 「いまは、そう考えるしかありません」  遺書は道警の科研に回っている。 「首を絞めて、ブロック二個を縛りつけて沈めた、と書いてありました」 「明日は出るんだろうね」 「沈んでいれば、出ると思いますが」 「どうして立原を、押えなかったのかね。参考人として呼んだときに、留置しておけば、寺迫麻実も草加英子も殺されずにすんだ」 「しかし、まだ留置するだけの理由がありませんでした」 「これも運か」  と北野署長は呟いた。  ドアが叩かれた。 「主任、立原の奥さんが来ていますが」 「まだ、遺体は病院からもどって来ていない。部屋で待たせておけ、いや、おれが行く」  と石渡は署長に一礼して部屋を出た。捜査本部の部屋の前に、立原の妻が立っていた。立原通子、三十二歳である。よく肥った女である。 「どうぞ、入って下さい」  と中に案内する。机の並んでいる端に通子を坐らせた。ストーブに近い所である。 「遺体は病院からまだもどって来ていませんので」  通子はうつむいていた。子供の復讐のため三人の人を殺したということを聞いたようだ。 「立原さんは、お子さんが可愛いかったんですね」 「ええ、人並みの親としては」 「お子さんが亡くなられたとき、立原さんは悲しまれたんでしょうね」 「ええ、親としては、誰でも子供の死は悲しいんじゃないですか」  当り前のことである。子供は車にはねられて死んだ。悲しみは歳月と共に薄くなっていくものか、増幅されていくものかは、その場に立ってみないとわからない。 「あのー」  と通子は言った。 「ほんとに立原が、女性三人を殺したのでしょうか」 「そういうことになりますが」 「立原は、そんな男ではなかったはずなんですが」 「そんな男ではなかった?」 「死んだ奈保のために、人殺しをするなんて」 「でも、人はわからないところがありますからね、たとえ奥さんでも」 「悲しいと肥るんですね。あたし、六年前は四十三キロしかなかったのに、いまは五十四キロもあるんです」 「なるほど、悲しいと肥りますか」 「悲しいのは立原だけではありません、あたしだって。奈保が生きていれば、もう九つなんです」  刑事が、病院からもどって来たと言った。通子を鹿内刑事が案内する。遺体を運ぶ車も用意してある。部屋を出ていく通子の尻を見ていた。たしかに肥りすぎてプリプリしていた。  悲しいと痩せるはずなのに、逆に肥ってしまう。  石渡は椅子に坐り、煙草を咥《くわ》え火を点けた。大きく息をついた。少しはじめから考えてみなければならないな、と思う。だが、池に沈んでいる草加英子が気になる。  鳥越刑事が入って来た。 「もう帰っていいよ。明日のことだ」 「主任は帰らないんですか」 「少し考えてみる」 「そうですか、ではお先に失礼します」  と言って出て行った。猪原刑事が入って来た。今日は当直だという。  黒いコートの男から事件がはじまった。はじめは捜査方針もこの黒いコートの男に向いていた。だから立原を軽く見たというのではない。立原は張り込ませていたが、張込みが薄くなったところで逃亡した。そして自分の家へもどって来て自殺した。  黒いコートの男は一体何だったのか。いまはただの倫子の浮気の相手ということになるのか。いそいそと出かけていくくらいの相手なのに、倫子の身辺には、この黒いコートの男の影はなかった。黒いコートの男が立原ということは、時間的にあり得ない。  多門烈が釧路で何か掴んだのか、あの男は何か掴んでも喋らないかもしれない。多門が黒いコートの男にこだわっているのは何故なのか。理由はあるはずである。 「主任、多門さんが見えましたよ」  と猪原が言った。多門といま一人、若い女が入って来た。 「さっき、草加の家で、英子さんが中島公園の池に沈んでいると聞いたんですが」  多門は連れの女を、英子の従妹《いとこ》で西方有里子と紹介した。多門の恋人である。  どうぞ、と二人を椅子に坐らせた。ストーブを囲むようにである。 「今日の午後三時ころ、立原恭平が遺体でみつかった。まだ断定はできないが、ほぼ自殺でしょう。立原の遺書の中に、草加英子を絞め殺して池に沈めたと書いてあった」 「立原さんが、自殺ですか」 「多門くんには納得いかないようだね」 「遺書まであれば、仕方ないでしょう。それで越智さんも寺迫さんも立原さんが殺したんですか」 「遺書が本物ならそういうことになるね」 「本物ではないんですか」 「いま、道警の科学研究所に行っている。明日には結果が出るだろう。それで、釧路では何かわかりましたか」 「観光旅行でしたよ」 「何かわかっても、捜査本部には言えませんか」  多門は笑った。 「警察にわからないものが、ぼくなんかにわかるわけはありませんよ」 「いや、あなたには、われわれにない目がある」 「そうだといいんですけどね」 「わたしは、素人だとあなどっているわけではありませんよ。立場が異なると、別なものが見えてくる。あなたは、英子さんを、われわれよりもよく知っている。立原のことだってわたしたちにはわからなかった。あなたがいなければ、立原を知るには、もっと時間がかかっていたでしょう。ああ、いま、立原の奥さんが来ましてね、立原は人を殺すような人ではない、と言っていましたよ」 「ぼくもそう思いましたがね」 「明日で結論が出るでしょう」  と言い、石渡のほうから、腰を上げた。     5  西署を出ると、そこに鳥越刑事が待っていた。 「多門さん、呑みに行きませんか、そのお嬢さんもご一緒に」 「そうですね、彼女は草加の家に届けます。そのあと呑みに行きましょう」  鳥越がタクシーを止めた。鳥越が助手席に乗り、烈と有里子は後シートに乗った。有里子をあちこちに引っぱり回すわけにはいかない。彼女の両親も心配しているに違いないし、草加家では、いまごろ大騒ぎだろう。  有里子を草加の家の前で下ろし、タクシーを南四条西四丁目に向けた。居酒屋『タナカ』である。 「この店につき合って下さい」 「いいですよ」  店に入った。寺迫麻実と来た店である。この店から麻実のマンションに行ったのだ。  テーブルに向い合って坐った。水割りをたのみ肉料理を頼んだ。水割りのグラスが来てお互いにグラスをあげる。カンパイというわけにはいかない。 「鳥越さん、ぼくに何か話があったのではないですか」 「いや、釧路で何かわかったんじゃないかと。そんなことはいい、事件を離れましょう。多門さんと呑みたかっただけです」 「でも、事件を離れるわけにはいかんでしょう。実は、朝早く鳥越さんがホテルに見えた前の晩でしたか、脅しの電話がありましてね」 「脅しの電話?」 「ええ、この事件から手を引け、手を引かないと痛い目にあう、と」 「誰です?」 「わかりません。声は変えていましたからね。でも男だったことだけはたしかです」 「立原ですか」 「違うようですね。そのあとすぐに電話してみました。立原さんに」 「立原以外に誰かいるんですか」 「もしかしたら、鳥越さんかと」 「まさか、おれが声を変えたりなんかして脅しの電話なんかするわけはない」 「でも、鳥越さん、怒ってましたからね、立原さんのこと誰に聞いたかって」 「それを、多門さんが教えてくれていれば、草加と寺迫は殺されずにすんだかもしれない」 「ぼくは、六年前の事故のことを、寺迫さんから聞いたんですよ」 「なんだって? あんたはたしか草加英子から聞いたと」  鳥越は声を荒げた。友だちのように話していても、ときどき刑事の言葉になる。そこが刑事のいやらしいところだ。刑事という職業が体に染みつき、性格にまでなっているようだ。 「麻実さんとは、ぼくが札幌に来た次の夜ですから十八日ですか、この店で呑んだんです。よくこの店には来ていたようですね」  鳥越は黙った。彼が酒に誘ったのは、何か目的があったからだろう。 「釧路から電話したとき、石渡主任は、解剖で麻実さんの体から覚醒剤の反応が出たと言っていました。もしかしたら覚醒剤がらみの殺人ではないのかと。さっき、主任にお会いしたときは、覚醒剤の話は出ませんでした」 「それは、立原が自殺したからですよ。覚醒剤どころではなくなったというところだと思いますけどね」  鳥越の言葉は穏やかになっていた。 「ぼくは、その覚醒剤というのが、妙に気になるんですよ」 「札幌にも暴力団はいますからね、一部には覚醒剤が出ているのかもしれない。あいつらも生活していかなければなりませんのでね。もちろん西署でも、やつらの動きは洗っていますよ。需要と供給の問題ですな。覚醒剤を使う人たちがいるから、暴力団は運んで来るんです」 「はじめは、みんな覚醒剤を押しつけますからね。覚醒剤の味を覚えさせておいて、それから売りつける。まあ一般論はいいですよ」  二人とも女を呼んで、水割りのお代りをした。 「さっきのお嬢さん、可愛い人でしたね」 「鳥越さんは、女性は好きですか」 「そりゃ、男ですからね」 「つき合っている女性がいるんですか」 「刑事だって欲望はあります。もちろん犯罪に関っていない女に限られます。また、女とのトラブルも困りますがね」  水割りをカラカラと氷を鳴らしながら呑む。この刑事は自分から、何か掴もうとしているのか。 「多門さんは、釧路の黒いコートの男にこだわっていた。そして今度は覚醒剤にこだわる」 「こだわってみないと、内容がわかりませんのでね。捜査本部の捜査とは別の方向に興味があるんです」 「それで、釧路では、何かわかりましたか。いや、それはもうどうでもいいんです。明日、中島公園の池から草加英子の死体が上がれば、すべて解決ですからね。被疑者死亡のまま、起訴ということになります」 「死体が上がると思いますか」 「立原が嘘を書くわけはありませんからね」 「その立原の遺書というのを見せてもらえますか」 「科研からもどって来たら、コピーしてさしあげますよ。多門さんの頼みですから。そう、便箋にして十数枚あったんじゃないですか。よく書いたものです。遺書はそんなたくさんいらないはずですが、書きはじめたら止められなくなったんでしょう」  はじめ、烈は、英子が、倫子と麻実を殺し立原まで殺した、と思っていた。倫子、麻実殺しは立原に押しつければいい。六年前の事故で倫子と麻実は、立原に復讐された。そして立原は自殺した。だが、そういうストーリーにはならなかったようだ。立原は英子を殺したことまで遺書に書いている。  立原には正体不明の東田久仁子という女がいた。この女がいたことは立原の口だけではなく、ホテルのフロント係が証明している。  公園の池から、英子の死体が上がれば、この東田久仁子のことも、釧路の黒いコートの男も関係なく、事件は処理されてしまうのだろう。  それを証明するように、立原の机の上には、娘奈保の写真のそばに、スマイルバッジが置いてあったと聞いた。 「明日、英子さんの死体が上がれば、すべて解決ですか」 「解決するのが、何か不満のような言い方ですね」 「いくらか割りきれないものが残りますね」 「どんな事件でも、算数のように完全に割りきれるものではありませんよ。われわれ捜査員は、割りきることが目的ではなく、犯人を捕えることにあるんです」 「今夜は、立原さんのお通夜ですか」 「今夜になるか、明日の夜になるか」 「立原さんは、恨みを晴らして満足して死んでいったんですかね」 「恨みを晴らすなんて、古いですね。娘のことを諦めてしまえば、あと三十年、あるいは五十年生きられたかもしれないのに。仇討なんてはやらない」 「でも、立原さんが娘の復讐をする人だとは思いませんでしたがね、ぼくが会った感じでは」 「人は胸の中に思いも寄らないものを秘めているものではないのかな。多門さん、あなただって何を秘めているのかわからない」 「鳥越さん、あなただって同じでしょう」 「人間とは、そんなものです」 「麻実さんはいい女でした」  鳥越はちらりと烈を見た。 「いまだから言いますが、十八日の夜、この店で呑んだあと、麻実さんのマンションに行ったんです」 「麻実を、寺迫麻実を抱いた?」 「ええ、抱きました。いや、抱かれたのかな。彼女は、ぼくに越智さんが殺されたヒントを与えたかった。そう思ったから六年前の事故のことを教えてくれたんです」 「それで」 「麻実さんが、ぼくにそのことを話さなければ、立原さんは、もっとゆっくり復讐をやれたんじゃないか、と思いましてね。ぼくが西署の交通課に行ったばかりに、容疑が立原さんに向けられ、あわてて、残った二人を殺さなければならなくなった。何ヵ月か何年かかかって一人ずつ殺していけば、あるいは立原さんは自殺することはなかった。もっとも立原さんが犯人とは、ぼくは考えていませんけどね。また麻実さんは酒を呑みながら、六年前のことをポロッと洩らしてしまう人じゃない。ベッドを共にして、少しでもぼくの役に立ちたいと考えて話したことなんです」 「麻実には、いろいろ男がいたようでしたからね。どうです、ベッドサービスはよかったですか」  と鳥越は笑いながら言った。 「ちょっと忘れられませんね」 「多門さんには、あんな可愛い娘さんがいるのに」 「ぼくも鳥越さんと同じ男ですからね。麻実さんが誘っているのに断わっては失礼でしょう。ぼくはそれほど堅い男ではありませんよ」 「もう一軒つき合いませんか、私の知っている店があるんです」 「いいえ、ぼくは疲れました。ホテルに帰って寝ますよ」 「釧路では、おたのしみだったようですね」 「有里子も女ですからね」  女になった、というべきか、東京では、烈が誘えば拒みはしなかったが、烈の求めに応じただけだった。それが釧路では違った。激しく求め、激しく応えたのだ。     6  鳥越刑事とは店の前で別れた。店は南四条西四丁目である。四丁目の通りは、まっすぐ札幌駅に向っている。迷いようがなかった。大通りを境にして北と南に分れている。歩いてもホテルまでそれほどの距離ではない。空のタクシーが走っているが、烈は停めなかった。  ホテルまで歩いて帰るつもりだった。いつもなら、道路の端に積まれている雪もほとんどなかった。暖冬のせいか、それとも、この季節には雪は少ないのか、烈は札幌に住んでいないのでわからない。もっとも空気は雪国だけに冷めたい。彼はコートの襟を立てた。  考えることが、いっぱいあるような気がした。黒いコートの男にこだわってみたり、麻実の覚醒剤にこだわってみたり、よけいなことだったのかもしれない。  捜査する刑事たちは、こだわりを捨てないと先へ進めないのだ。はじめは釧路駅の黒いコートの男にこだわっていた捜査本部も、いまはそのことはほとんど忘れてしまっている。  立原が自殺した。立原が書いた遺書というのを見てみたい。三人を殺した、と書いてあったという。英子を殺して池の中に沈めた。池の中から英子の死体が出てくれば、それで事件が解決する。英子の死体が池の底に沈んでいる、ということは犯人以外には知らないことのはずだからである。  倫子のことはあまり記憶にはない。高校のころ、良彦の姉の友だちということで何度か会ったことがあるようだけど。英子と麻実はいい女だった。札幌のいい女を代表するような女だった。あの夜、英子も烈が誘えばベッドのある部屋に入ったのかもしれない。  チャンスではあった。チャンスというものは一度逃すと二度とはやって来ない。あの夜、英子はたしかに酔っていた。酔った頭で何を思ったのだろう。この秋に結婚すると言っていた医者のことか、あるいは烈が弟の友だちだと意識したからか。あるいは英子は烈が誘うのを待っていたのか。  今夜は、酔ったから帰るわ、と言った。そのとき、一言誘えば、烈の腕の中に転り込んで来た。  男が後から歩いて来る。コートを着た烈よりいくらか背の低い男だ。顔は烈に向けていた。目の色までは見えない。だが、烈は男が自分に向って来ているのがわかった。だから足を止めて待った。三十をいくらか過ぎた男である。肩から胸は張っているようだ。ちょうど灯りのないところだった。男の背後と烈の背後にはネオンがあった。 「多門さんかね」 「そうですが」 「ずいぶん探したよ」  とたんに男のコートの裾が翻《ひるがえ》った。次の瞬間、男の手にキラリと煌《ひか》るものが見えた。烈は一歩足を踏み込んで、その手首を掴んでいた。右手を突き出そうとするのを、逆に引っぱった。前に重心をかけた体は、ふわりと浮き上り、三メートルも跳んでコンクリートの上に叩きつけられていた。ナイフはどこかにとんでいた。  男には、なぜ自分の体がとんだのかわからなかったようだ。男には害意はあったようだが、殺意というほどの激しいものはなかった。  男は、尻から背中あたりを打ったようだが、腹這いになり、ゆっくりと起き上がった。そして、落したナイフを目で探しているようだった。 「てめえ!」  と腹の底から声を出した。威嚇《いかく》である。それで筋ものとわかった。暴力団から狙われる覚えはない。脅しの電話を思い出した。もちろん、この男が脅して来たのなら、何も声をかけることはなかった。烈の知らない男だからだ。  脅しの電話を掛けて来た男に頼まれた男だろう。 「この事件から手を引け」 「この事件って何ですか。あなたの言っているのは『まりも』殺人事件ですか。だったら明日、かたがつくはずですよ」  男はいきなり地面を蹴った。右拳がのびてくる。暗がりの中でもそれは烈に見えていた。その右手首を掴んだ。引き寄せておいて足を払った。男は一回転して、尻から落ちた。合気道は相手の力を利用することに基本がある。殴りかかってくるのに、それを防ごうとすればよけいな力が必要になる。男を引っぱり込めば、力はほとんどいらない。 「いてっ!」  と男は声をあげた。尾※[#「骨へん+低のつくり」]《びてい》骨をコンクリートに打ちつけたらしい。烈は男が起き上がるのを待った。だが、なかなか起き上がらない。起き上がれないのだ。骨にひびでも入ったのかもしれない。 「誰に頼まれたんです。喋ってもらいますよ」 「お、おめえは、何をやってるんだ」 「何をって何ですか」 「柔道か、空手か」 「ああ、そのこと。合気道をやりましたけどね」  男は這って逃げようとした。その襟《えり》を掴んで引き寄せた。 「誰にたのまれたんですか」 「知らねえよ」  烈は男の顔を靴の先で蹴りあげた。男はまともにひっくり返った。もっとも体を縮めたので、後頭部は打たなくてすんだ。 「喋らないと、あなた、死ぬことになりますよ」  幸いというべきか、通行人はなかった。 「もちろん、ナイフを抜いてかかって来たんですから、死ぬ覚悟はできているんでしょうがね」 「ま、待ってくれ、死ぬ覚悟なんてできていねえ。喋る。おれはほんとに知らないんだ。ほんとだ。電話がかかって来て、札幌パークホテルに泊っている多門烈という男を叩いてくれ、と言った。一週間入院するくらいでいいと」 「何日でした」 「たしか、十八日だった。そのあと、小包みで百万円送って来た。だが、あんたを探すことができなかった。やっと、今日、西署を張り込んでいて、あんたをみつけたんだ。ほんとだ、頼んで来た男は誰だか知らねえ」 「あなたの組の名は」 「組は関係ねえ、おれ個人の仕事だ」 「あんたの名前は?」  男はしばらく黙った。 「渋井清一だ。百万円分だけの仕事はしなければならねえ、と思った。百万円ただもらうわけにはいかねえからな」 「義理堅いことですね」 「ほんとだ、信じてくれ」 「信じますよ。でも、ぼくに手を引かせると言ったって。犯人は自殺しましたしね。事件は終っているんですよ」 「あんたの行方がわからねえんで、遅れっちまった。おれはドジな男さ」 「ドジですね。でも、渋井さんの仕事はもうすんだんです」 「すると、百万円は返さなければならんのかな。ガキの入学で半分は使っちまったよ」 「金を出した男が返せと言ってくるかもしれませんね」  と言って烈は歩き出した。  証文の出し遅れ、ということがある。渋井は、烈を探しきれずに、タイミングを逃してしまった。烈もまた、電話で脅されてからは、それを気にしていたのだ。  渋井を百万円で頼んだのは誰だったのか。立原ではないはずだ。     7  翌、二十四日—。  この日、朝から中島公園に百人ほどの捜索隊が出た。烈も朝九時ころ公園に向った。池は、アイススケートでもできるように凍っているのか、と思ったが、水面に氷はなかった。池には十艘ほどのボートが浮いていた。池岸には捜索隊が歩きまわっている。ボートの上にも、隊員が四、五人ずつ乗っていた。英子の死体は、岸から沈めたものではないらしい。  ボート屋の店員は暗くなると帰ってしまう。英子の死体をボートに乗せ、池の中ほどで沈めたものと思われた。  この池は、豊平《とよひら》川の水を集めたところという。池に死体が沈んでいると聞いて、弥次馬が集って来ていた。夏はボート、冬はスケートで楽しめるというが、今冬はスケートができるほどには凍らなかったようだ。  池の周りには、散策路がある。たしかに散策するにはいい所のようだ。烈は池の畔《ほとり》を歩き出した。公園の入口の向いに、豊平館が建っている。明治十三年に、開拓使が建てた洋式建物で、以前は時計台の近くにあって公会堂として使われていたものだが、昭和三十三年に、ここに移された。いまは結婚式場などに使われている。  烈は、東京の井の頭公園にはよく行ったが、そこにも池があり、若ものたちがボート遊びをしている。中島公園の池は、その三倍くらいの広さがある。  池の端から右回りに歩く。半周ほどすると、コンクリート作りの太鼓橋がある。そのあたりには浮草が水面に浮いている。橋を渡ったむこうに豊平館が見え、その右手に日本庭園があり、その庭園の中に八窓庵《はつそうあん》がある。庵の周りは鎖で囲まれていて、中には入れない。小堀遠州の作であることは前に書いたが、重要文化財で、江戸初期の草庵風武家茶屋で、滋賀県長浜市から運ばれて来た。  見るからに小さい。烈でも首を縮めなければ玄関に入れないほど。当時の人の背丈がうかがわれる。たしかに素朴な作りで幽玄である。  こういうときに散策するのはふさわしくない。だが、烈は妙に静かな気持で草庵を見ていた。 「多門!」  と声をかける者があって、首を回すと草加良彦の長身があった。 「昨夜、家から電話があって、今朝の便で来た」 「そうか」 「この池に英子が沈んでいるって、ほんとか」 「死体が上がってみないとわからんが、間違いないだろうな。家へは行ったのか」 「いや、空港からまっすぐに来た。やはり、立原に殺されたのか」 「警察では、そう見ている」 「おまえはどうなんだ?」 「まだわからん」  外へ出ようか、と庭園の外にうながした。この庭園は竹垣で囲まれている。竹垣を出ると池はすぐそばである。池に向ってベンチが並んでいる。烈と良彦はそのベンチに坐った。  捜索隊が池のあちこちをさらっていた。まだ声はあがらない。早朝からはじめて、すでに昼近くになっていた。 「多門も調べたんだろう」 「ああ、ぼくにできることはね」 「英子は助けられなかったのか」  良彦は二歳年上の姉を英子と呼び捨てにする。子供のころから、そう育って来たのだろう。 「まさか、ぼくが英子さんにへばりついているわけにはいかないからな」 「不可抗力か」 「おまえが、はじめから、英子さんを守ってくれ、と言っていれば別だったのかもしれんがな」 「おれも、英子が殺されるとは思っていなかったよ。人の恨みというのは恐ろしいものだな」  ふむっ、と烈は鼻で息をした。 「おまえは、立原に会ったんだろう」 「ああ、麻実さんに六年前の事故を聞かされてな」 「そのときに感じなかったのか」 「そんな男には見えなかった」  捜索隊は動いている。広い池だ。そう簡単には上がらないのだろう。 「腹空いたな。おれは朝早く出て来たから、朝めしもまだ食っていない。どこかに食いにいかないか」 「ぼくはいい、おまえだけ食ってこいよ」  そう言われても良彦は動き出せない。英子の死体がいつ上がるかわからないのだ。彼は煙草を咥え、火をつけた。煙りを吐くと、フワッと流れる。風はないように見えてあるようだ。陽だまりの中にいれば暖いが、陽かげにいるとやはり寒い。 「寒いな。腹が空いていると、よけい寒い」  と良彦はベンチを立ち、歩きだした。烈はその姿をちらっと見た。良彦は、またもどって来た。 「多門、英子には会ったのか」  そのことは、東京の良彦のマンションに行ったとき話してある。 「英子も、自分が殺されるとは思っていなかったんだろうからな。倫子が殺されたのが、六年前の事故が原因だとは考えてみなかったのかな」 「麻実さんも同じだった」  もしかしたら、と前おきして喋った。動機は別にあると思っていたようだ。 「ぼくだって念のため、と思って西署に行き、交通事故記録を調べたんだから」 「自業自得ということか」  良彦は、吸殻を池に向って指ではじいた。だが池までは届かなかった。  とたんに動きがあった。 「おーい、あったぞ」  捜査員の声がした。池のほぼ中央に浮いていたボートからだった。他のボートがそちらのほうへ集っていく。  烈と良彦はその動きを見ていた。ボートが揺れる。それでもなかなか上がらなかった。やがて、池から黒々としたものが引き上げられた。すでに物である。物はボートの上に引き上げられた。烈と良彦は歩き出した。ボートはむこう岸に上がるはずだ。そこには死体を運ぶ車が待っている。鑑識課員も待っているはずだ。  死体が岸に上げられるところへ烈と良彦が着いた。草加良彦ですけど、と言った。中へ通してくれた。烈は捜索隊の輪の中には入らなかった。本人確認は良彦がするはずである。遺書にあったように、英子の遺体には、二個のブロックが結びつけてあるようだ。  鑑識によってロープが切られる。遺体が担架に乗せられ、車に運び込まれる。人垣が崩れた。  烈は、石渡主任に歩み寄った。 「英子さんでしたか」 「そのようだな」  と石渡は烈をちらっと見て言った。 「スマイルバッジも、胸につけていた。遺書の通りだな」 「一件落着ですか」 「そうなるだろうな」  死体は医大病院に運ばれる。解剖の結果が出てから、捜査本部の解散は決められるのだろう。  良彦は、パトカーに刑事たちと一緒に乗って去った。弥次馬たちも散りはじめる。  烈も公園を出て歩きはじめた。この公園から札幌駅までは歩くと三十分以上かかる。もちろん、このままホテルにもどる気はない。  ススキノの近くに喫茶店をみつけて入った。寒くはないが、体は冷えていた。席につき、珈琲をたのむ。  捜査本部で事件が解決しても、烈の頭の中では、解決してはいなかった。英子が行方不明になったとき、このことは予想していた。  烈は一時間ほどぼんやりとしていた。何かを考えていたわけではない。椅子を立つと、赤電話にとりつき、西署の捜査本部のダイヤルを回し、石渡主任を呼んでもらった。 「石渡だが」 「多門ですが、この札幌に覚醒剤をあつかっている暴力団がありますか」 「どうして」 「少し覚醒剤にこだわってみたいんです」 「なにをいまさら、もう事件は終ったんだよ」 「教えていただけますか」 「中川組だ。もちろん証拠があればすでに手入れをしているがね。噂だけだ」 「事務所はどこにあるんですか」  答えが出るまで一呼吸あった。 「中川建設だ。あとは電話帳ででも探せ」  面倒くさそうに、石渡は電話を切った。     8  西署の署長室に草加病院の院長草加亮三、その妻|俊子《としこ》が来ていた。応接セットのソファに坐り沈痛な顔をしていた。娘が殺され、池に沈められていたのだから、当然だろう。そのそばに草加良彦が立って、檻の中の熊のように歩き回っている。  病院から英子の遺体はまだもどって来ていないのだ。 「あまり、自由にさせすぎた」  と亮三がぽつりと言った。  両親とも、英子が男たちと、あるいは高校の友だちと遊び回っていることは知っていた。この秋には結婚させるつもりだった。今年十一月で英子は三十歳になる。両親はその前にと考えていたようだ。相手は内科医の篠田《しのだ》という男である。篠田もそのことは承知していた。 「その立原という男に殺されたのでしょうか」  俊子が言った。 「そのようですな、立原の遺書から、お嬢さんのことがわかったのですから。犯人でなければ知り得ないことです」  北野署長はそう言った。  草加亮三は、札幌では有力者の一人である。 「立原は、子供に死なれて狂ったのでしょうな。狂わなければできないことです。立原はお嬢さんの車のナンバーは見ていたのでしょう。だが、復讐するつもりだったので、そのことは警察に言わなかった。捜査主任はそのように考えているようです」 「つまりは英子が悪いんですね。逃げないで自首し、立原に詫びていれば、殺されずにすんだのに」  俊子には諦めきれないようだ。 「愚痴を言っても英子はもどらん」  亮三ははき捨てるように言った。  捜査本部の部屋には、捜査員たちが集っていた。釧路署の刑事も四人いた。ほぼ事件は終った。あとは解剖検案書を待っているだけである。  被疑者死亡のまま起訴となる。刑事たちはほとんど何もしなかった。立原恭平を容疑者として手配しただけである。立原を手配したために、寺迫麻実と英子の死期を早めたということも言える。  立原の遺書の筆跡鑑定は、結果が出ていた、�ほぼ立原の筆跡�という答えだった。ほぼというところが少し気になるが、その辺はすでにどうでもよかった。立原の遺書の通り、中島公園の池の底から英子の死体が出たのだ。犯人でなければ知り得ないことである。その死体の状況も遺書のままだった。  英子の体には二個のブロックが結びつけられていたし、首には絞められたあとがあった。死体は水にふやけ、池の魚につつかれたのか傷だらけだったし、腐敗していた。肉がゼリー状になっている部分もあった。無惨である。  草加良彦も死体を見てさすがに顔をそむけた。だが、ワンピースの胸のあたりには、例のスマイルバッジがついていた。 「あのスマイルバッジは不気味でしたね」  と鶴見刑事が言った。  殺された三人とも、死体のそばにスマイルバッジがあった。立原の机の上にも、同種のバッジが置いてあった。  鑑識では、だいたい死後四日と言った。五日前には英子は生きていたのだから当然だろう。英子を呼び出すのに名前を使われた高槻啓介はもちろん、刑事の訪問を受けたが、事件には無関係だった。  事件が解決しても捜査本部では祝盃をあげるわけにはいかない。殺人犯人に自殺されてしまったのだから。あと味の悪い事件である。  病院から、英子の遺体が着いた。一応は、地下の霊安所に入れられる。そこで遺体と対面した俊子は、あまりの無惨さに失神してしまった。  遺体は、草加家に運ばれた。  病院から解剖検案書が届いたが、目新しいことは何もなかった。捜査本部は解散し、釧路署の刑事たちは帰っていった。他の捜査員たちも浮かない顔をしていた。 「鶴さん、どうも割りきれんな」  と石渡が言った。 「仕方ないでしょう。とにかく事件は解決したんです」  と鶴見刑事が言った。  そのころ、札幌市|琴似《ことに》にある中川建設の前に、烈が立っていた。暴力団の組事務所とは見えない。三階建ての建設会社である。裏の顔を持つ会社なのだ。  烈は一時間ほど、会社の前で張り込んでいた。たしかに出入りする男たちは暴力団員である。暴力団員というのはその歩き方からして違っている。そういう歩き方をしないと、暴力団員ではない、と思っている。着ているものも派手である。  腕時計を灯りに透かして見ると、午後八時を少し回っていた。捜査本部は解散しても、烈の中ではまだ終っていない。納得できないものがいくつも残っていた。  英子のお通夜は明日になるだろう。そして明後日が葬式になる。寺迫麻実とは一度ベッドを共にした。その麻実のためにも、事件ははっきりさせなければならない。手や肌やペニスは麻実の感触を忘れてしまっている。だが脳は覚えているのだ。白い脂ののりかけた体だった。肌が青白く見えたのは覚醒剤のせいだったのか。  烈の頭の中には一つの構図がある。釧路では、英子を犯人とする構図だったが、その構図もいまは形を変えている。立原を犯人とする構図ではない。立原犯人説は、烈の頭の中にはなかった。もちろん、犯人によって、その動機も変ってくるのだ。  立原を犯人とする動機は復讐である。英子を犯人とすれば動機は保身だろう。もう一つこの事件が逆転すれば、動機もまた変ってくる。越智倫子や、寺迫麻実もほんの脇役でしかなかった。草加英子、立原恭平もまた脇役にすぎないのだ。  中川建設から一人の男が出て来た。三十歳くらいの男である。中川組の幹部といった服装ではない。準幹部といったところだろう。肩をいからし、黒眼鏡をかけていた。男が目の前を通りすぎるのを待って、声をかけた。 「加藤さんですか」  男は足を止めて振りむいた。 「おれは、柳田だ」 「柳田さん、覚醒剤を分けてくれませんか」 「なんだと、そんなものあるか」 「聞いて来たんですよ」 「誰に」 「ある人にね」 「ない、と言っているだろう」  柳田は両手をズボンのポケットに突っ込んでいた。隙だらけだ。知らない男にこういう姿勢で対していいのか。肩からオーバーコートを掛けている。 「売って下さいよ」  と烈は、柳田の肩をこづいた。 「なんだと、てめえ」  と怒った。予想通りである。 「おれを甘くみると、ただじゃすまねえぞ」  両手をポケットから抜いた。いきなり右拳を突き出して来た。その手首を烈が握った。柳田の体が一回転して地面に叩きつけられた。その瞬間に、烈は柳田の鳩尾《みぞおち》に拳を入れた。ギェッ、と声をあげて気絶した。その襟を掴んで近くの暗い駐車場に引きずっていく。黒いメガネはまだ鼻の上にかかっていた。  この辺は、夜になると人通りはない。烈は柳田の背中に活《かつ》を入れた。しばらくして、 「てめえ、誰だ!」  と叫ぶのに、左こめかみにパンチを入れた。柳田の頭がカクンと揺れる。 「騒ぐと、叩きますよ」 「な、なんだっていうんだよ」  柳田は声を低めた。 「少し、ぼくの質問に答えて欲しいんです」 「これが人にものを聞く方法かよ」 「まともな人なら、こんなあつかいはしませんよ」 「てめえ、なめるなよ」  と言ったとたん、拳が右こめかみを叩いた。 「覚醒剤をあつかっていますね」 「てめえは誰なんだ?」  烈は柳田の股間のふぐりを握った。 「なにをしやがる」 「握り潰すんですよ」 「や、やめろ!」 「さすが、中川組の幹部だ。死んでも喋れないというんですね。いいでしょう」 「ギャッ!」  と叫んで悶絶した。ふぐりの中の玉一個が潰れていた。うずらの卵が潰れたような感触があった。また活を入れる。 「まだ、一個残っています。これも潰しましょうか」 「ま、まってくれ」  ズボンの股間が妙に暖くなった。失禁したのだ。 「ぼくは、柳田さんを殺すことだってできる。喋らないで、死んでいきますか」 「喋る。喋るよ、たしかに覚醒剤はあつかっているよ」 「その客の名前を知りたいんですよ」 「言うよ、だから助けてくれ」  尿が臭った。 「誰にも喋りませんから、安心して下さい。でも、もう柳田さんには、組員は無理かもしれませんね」  烈は笑って立ち上がった。手がぬれていた。どこかで洗いたいが、近くに水はなさそうだ。温《ぬる》かった手も外気に触れて冷めたくなっていた。  六章 二つめの自殺     1  草加家はお通夜だった。  二十五日、土曜日である。  座敷に大きな祭壇が作られていた。金色の仏具の真中に英子の遺影があった。その左右には白い花輪が重なり合っていた。祭壇の前に白木の柩《ひつぎ》がある。柩の窓は開かないようになっている。  烈は祭壇の前に坐り、お焼香し鉦《かね》を打ち、合掌した。写真の英子は笑っている。品のいい顔である。ニュースを見て、あるいは新聞を見て弔問に来る客は多い。  もちろん柩の中には防腐剤と脱臭剤は入っているのだろう。  祭壇を退くと、お手伝いが烈に囁《ささや》いた。良彦が呼んでいると言う。高校のころから良彦は東京のマンションに住んでいるが、この家にも良彦の部屋はあったのだ。烈も学生のころには何度か来て泊っている。部屋はわかっていた。  ドアをノックすると、おう、と返事があった。ドアを開けると、良彦と有里子がいた。彼女は、烈と入れ違いに部屋を出て行った。 「まあ、坐れよ」  と言われ、いままで有里子が坐っていた椅子に坐る。広い部屋で、隅にベッドがあった。 「終ったな。調査費は残ったろう。だが返さなくていいよ」  烈はキャスターに火をつけた。 「ビールでものむか」 「いや、やめておこう」 「明日、東京に帰るのか」 「英子さんの葬式まで待つよ」 「じゃ、おれと一緒に帰れるな。どうだい、有里子とは、うまくいっているのか」  と言って良彦は笑った。 「そうがっかりするな、女は所詮女だよ。女に期待するとガッカリする。もっとも有里子はおまえを愛している。愛していると、がんじがらめになるものだ」 「そうだろうな」 「おまえだって麻実を抱いたんだ」  と言い、良彦はまた笑った。 「有里子を抱いてやれよ。彼女はおまえに抱かれたがっている。葬式というのは女を興奮させるものだ」 「ぼくは、ちょっと用がある」 「おれの調査はすんだはずだ。札幌に別の女でもできたのか」 「そんなところだ」 「多門、おまえも悪くなったな」 「良彦ほどじゃないさ」  椅子を立って部屋を出た。そこに有里子が立っていた。 「今夜、ホテルに行くわ」  と囁いて離れていった。  草加家を出ると、公衆電話を探した。そして、札幌西署に電話を入れ、鳥越刑事を呼び出してもらった。 「鳥越だが」 「多門です。鳥越さん、外へ出られませんか」 「事件は終ったはずだが」 「まだ終っていないことは、鳥越さんが一番ご存知のはずですが」  鳥越はしばらく黙った。 「どこへ行けばいい?」 「駅近くの読売ビルの中にある『るふらん』でいかがでしょうか」 「三十分でいく」  と電話はむこうから切れた。  烈は電話ボックスを出て歩く。『るふらん』という喫茶店は越智剛の女、渡辺友紀と会った店である。歩きながら、烈の胸はふさがっていた。良彦とも以前のように話す気にはなれなかった。  三人の女が死んだ。越智倫子はなじみがなかった。英子と麻実ははっきりと思い出すことができる。無惨だった。池から上がった英子を見ないですんだのはまだしもだった。 『るふらん』に入り、席について、珈琲をたのんだ。珈琲が運ばれて来たとき、店のドアから、鳥越が入って来た。黙って向いの椅子に坐る。ウエイトレスが水を運んで来る。珈琲と言った。 「何のことだ」  烈は珈琲にスプーン一杯の砂糖を入れ、掻きまわした。小さな店である。客も少なかった。 「二十一日の朝、鳥越さんは、ホテルにぼくを尋ねて来ましたね」 「それがどうした」 「そのあと、ぼくは、あなたの家に電話したんですよ。いまだから言いますがね。奥さんは二十日の夜は家に帰って来なかった、と言いました」 「一体、何を言いたいんだ」 「あなたは、二十日の急行『まりも』に乗ったんです」 「よく説明してくれ、わからん」 「あなたは、下り『まりも』に乗って、寺迫麻実を殺したんですよ」  鳥越は、唇をゆがめ、鼻のわきにしわを作って笑った。 「冗談だろう。おれがどうして麻実を殺さねばならんのだ。動機がない。第一、立原が麻実を殺したと書いている。つまり、遺書の中で自白しているんだ」 「あの遺書は、立原さんが書いたものではないんですよ」 「な、なんだって」  と声をあげ、店の中を見回した。 「立原が書かなければ誰が書いたんだ?」 「それは言えません。少なくともいまはね。あの遺書を書いた人も、麻実は同じ人物に殺されたのだと思っていた。だから、抵抗なく、あのような遺書を書いた」 「馬鹿馬鹿しい」 「鳥越さん、寺迫麻実はあなたが殺したんです。あなたには動機があったんですよ」 「冗談言うな!」  と目を怒らせた。 「あなたは『まりも』に乗り込み、新得駅で上りの『まりも』に乗り換え、札幌にもどって来た」 「おまえの作り話だ」 「麻実のブティックの女店員が、あなたの名前を口にしました。麻実さんとあなたは、以前からずっと関係があった」 「鳥越という名前はおれだけじゃない」 「あなたは、中川建設から、覚醒剤を麻実さんに運んでやっていた。柳田が喋りましたよ。覚醒剤をもらう代りに、警察の情報を中川建設に流していた」  鳥越は唸った。 「麻実さんは、覚醒剤中毒になり、量はふえるばかり、腐れ縁なので別れようとしても別れられない。中川建設もただでは覚醒剤はやれない。あなたはそれだけの情報を持っていなかった。なんとか麻実さんを始末したいと思っていたところに、越智倫子さんが殺された。あなたは、倫子さんと麻実さんが親友だったことを知った。そのときは、まだ、英子さんが立原さんの娘奈保を死なしていることは知らなかったが、倫子さんが殺された時と同じように見せかけて麻実さんを殺せると考えた」 「…………」 「あなたは、覚醒剤で麻実さんを釣って札幌発の『まりも』に乗せた。おそらく釧路で覚醒剤が手に入るとでも言ったんでしょう。同じ『まりも』、同じスマイルバッジ、同じタイプのナイフ、これだけで、倫子さんを殺した同一犯人と思わせることができます」 「あんたは麻実と寝た、と言ったな。そのときおれのことを喋ったのか」 「なるほど、気になっていたんですね。麻実さんは喋りませんでしたよ。でもあなたは麻実さんを始末しないと自分が危いと考えた。あなたが彼女を殺さなくても殺されていましたがね」 「だが、おれが殺したという証拠はない」 「調べれば出るでしょう。どうして麻実さんが殺された夜、家に帰らなかったのか。アリバイという言い方をすれば、鳥越さんにはアリバイはない。札幌駅、あるいは新得駅ホームを探せば、あなたを見た人はいるはずです。だけど、ぼくには証拠なんかいらないのです。警察ではないんですからね」 「…………」 「ぼくは、鳥越さんを告発するつもりはありませんよ」 「おれを見逃してくれるというのか」 「見逃すというのではありません。ぼくはただ事情がわかればいいんです。でも、あなたは十五年間、怯えて暮さなければなりませんね。自首したほうが楽ではないですか」  鳥越はうつむいた。 「ぼくを殺そうとしたら、墓穴を掘ることになりますよ」  鳥越は、珈琲には手をつけないままだった。     2  烈はホテルにもどり、シャワーを浴び、浴衣姿で冷蔵庫から缶ビールを出すと、コップに注いでのみはじめた。  有里子が来ると言っていた。時計を見た。もう十時になろうとしている。良彦は有里子を抱いてやれよ、と言った。人の死は女を興奮させるものだと。女は喪服が一番似合うという。最も似合うのは身内が死んだときだろう。両親、あるいは亭主の葬式のとき。明日は有里子は、死んだ英子の喪服を着ることになるのか。彼女は喪服の用意はないはずだ。  女は哀しみのときに欲情するのか。哀しみを忘れたいために男を求めるのか。男はどうなのだろう、良彦にとっては姉が死んだことになる。池から上がった英子の死体を良彦は見た。やりきれなかっただろう。英子の顔は崩れていただろう。四日も水の中にいて、まともな姿であるわけはないのだから。  ビールが空になり、もう一本のビールを持って来た。たしかに、烈の胸もつかえ、眠る気分にはなれない。思いきり女の体を抱きたいところだ。  事件というのは、すべて快いものではない。今回の事件は、よけいに気が重い。  ドアがノックされた。ドアを開けると、そこに有里子が照れたような顔で立っていた。部屋に入ると自分でドアをロックした。烈に抱きつき、唇を軽く触れると、自分からバスルームに入った。そして脱いだものを次々にドアの外に出す。スリップとブラジャー、パンティだけは出て来なかった。  烈はシャワーの音を聞いていた。二本目のビールを飲み干し、彼は仰向けになった。有里子が体にバスタオルを巻いて出て来た。脱いだものを始末し、長い髪をブラッシングする。そして部屋の明りを小さくすると、烈の胸に上半身を重ねて来た。  有里子は烈の浴衣の紐を解き前を開いた。烈は彼女のバスタオルを外した。乳房を男の胸に押しつけて来て唇を重ねる。  唇をついばむようにしながら、 「烈を愛している」  と言った。 「ぼくも有里子が好きだ」  彼は有里子の背中から尻のあたりを撫でる。なめらかだが、脂の浮いたなめらかさではない。麻実が狂うように烈の腕の中で悶えたのは、もしかしたら覚醒剤のせいだったのか、とも思っている。  彼女は男の胸に唇を押しつけて来た。そしてゆっくりと這い下っていく。手は男を握っていた。それは怒張していた。そこに女の指が這う。烈は薄暗い天井を見ていた。部屋を暗くしても、窓外の明りが入ってくるのだ。  有里子は尖端に唇を押しつけて来た。そして舌を這わせなめらかにする。  東京では、有里子にはまだどこかでためらいがあった。たとえば、男を口にするにしてもだ。いまでは、そうするのが当り前のようなやり方だ。 「今夜は、草加の家にいたくなかったわけだ」 「烈が欲しかったのよ」  男を口から放して言った。再び深く咥《くわ》えると首を振った。咽《のど》の粘膜に尖端が擦りつけられる。くぐもった呻き声をあげた。烈は女の長い髪を指で梳《す》くようにした。左側にある女の腰を引き寄せ、丸い尻を撫でまわす。女の白い尻がいやいやするようにくねる。その尻が羞恥心を見せていた。女の羞恥心はセックスの調味料である。 「ねえ、今夜は、ここに泊っていいでしょう」  烈は返事をしなかった。釧路ではツインの部屋だった。ここはシングルである。良彦ならば、女とは絶対に眠らない。女とは寝るだけである。 「ねえ、いけないの」 「いいよ」 「よかった」  と有里子は息をついた。  男を手にすると、彼女は男の腰に跨がって来た。自分の切れ込みに男を誘い入れる。それが根元まで没すると、声をあげて重なって来た。しばらくじっと押しつけておいて、たまらずに腰を振りはじめる。 「愛している、愛している」  と泣くような声をあげた。烈は女の尻を引き寄せていた。その手の中で尻が回る。下から腰を突き上げてやると、その度に、アッ、と声をあげる。  烈は良彦のマンションで見せられたビデオを思い出していた。男は女にさまざまなポーズを要求する。女はいやいやしながら、結局は男の要求に従うのだ。  作られたビデオではなかった。女はビデオに撮られていることを知らないのだ。だから演技ではない。それだけに迫力があった。 「ねえ」  と有里子が言った。上になってくれとうながしているのだ。烈が頷くと、彼女は男の体を離れ、仰向けになった。     3  二十六日、日曜日—。  英子の葬式の日である。有里子は先に部屋を出て行った。東京から彼女の両親も出て来ているはずだ。両親は、きっと彼女の外泊を気にしているだろう。それでも有里子はホテルに泊らなければならなかったのだ。  出棺は午後二時と聞いていた。烈は、ただ見送るだけにしよう、と思っていた。礼服は持って来ていない。  朝食をすませ、また部屋にもどった。時間はあるが、とにかくホテルを出ようと思った。フロントにキーをもどし、外に出ると、そこに鳥越刑事が立っていた。目が血走っている。昨夜は眠れなかったのだろう。 「多門さん」  と言った。歩き出すとついて来る。拳銃でも持っているのか、と思った。 「事件は、もう終ったはずでしょう」 「おととい、捜査本部は解散した」 「それでいいじゃないですか」 「柳田が姿をくらましている。もしかしたら消されたのかもしれない」 「鳥越さんには、関係ないでしょう」 「ほんとに柳田が喋ったのか」 「ええ、あなたが覚醒剤をもらいに来ていたことを」 「ほんとに、おれを見逃してくれるのか」 「ぼくには証拠がないんです」  ごく自然に喫茶『るふらん』に入った。珈琲を二つたのむ。 「麻実は、おれが殺した」  烈は黙った。運ばれてきた珈琲にスプーン二杯の砂糖を入れた。甘いものが欲しかったのだ。おれが殺した、と言って、鳥越は体から力が抜けたようだ。同じように珈琲に砂糖を入れ、スプーンで掻きまわす。 「殺すには、もったいない女だった。いい女だったよ。覚醒剤さえ使わなければね」  烈は珈琲に口をつけ、そしてキャスターを咥えた。 「鳥越さんとはナントカ兄弟になる」  鳥越は唇をゆがめて笑った。 「みんな、あんたの言った通りだ。可愛い女だった。殺したくはなかった。だけど、殺さなければ、おれの破滅だった。おれが殺さなくても麻実は殺されていた。おれは手を出すべきではなかった。あんたに言われてわかった。ただ待っていればよかったのだ。おれの手では殺したくなかった」  鳥越は珈琲をのんだ。 「おれをほんとに見逃してくれるのか」 「ぼくには鳥越さんを告訴できない理由がある」 「ほんとに犯人は立原ではないのか」 「それは知らないほうがいいでしょう」 「ほんとの犯人は誰なんだ」 「探さないほうがいいですよ」 「墓穴を掘ることになる?」 「そうです」 「多門さん、あんたは、ただの男ではないね。柳田は簡単にひねられる男じゃなかった。あいつには殺しの前科がある。それをあんたは喋らせた」 「男にはどこかに弱点はあるものですよ」  柳田はキンタマを一つ潰されて失禁した。失禁した男は男ではなくなる。あるいは中川組の一員としては生きられない、と思ってどこかへ去ったのか。 「あんたを、ただの若い男だと思っていた」 「ただのタマゴですよ。ヒナにならないタマゴです」 「おれは、このままでいいのかな」 「時効は長いですよ。でも鳥越さんなら、耐えられるでしょう」 「耐えられなくなったら」 「自首するか、自殺するか」  そう言って烈は笑った。軽く言ってのけた。もっとも烈にとっては他人ごとでしかなかった。あとは鳥越自身の問題である。  烈は、それじゃ、と言って立ち上がった。 「せめて、珈琲代くらいおれに出させてくれ」  そうですか、と言って烈は店を出た。  烈は、草加邸の前に立った。大勢の参列者が、門の前まであふれていた。喪主の草加亮三が、マイク片手に挨拶していた。大勢の人たちに混って、烈は英子の柩が出て来るのを待った。  やがて数人の男に運ばれて柩が出て来て、霊柩車に入れられる。烈は、合掌し、そして歩き出した。  その夜、烈は狸小路のロシア料理の『コーシカ』で、渡辺友紀と会っていた。前に会ったとき、友紀は自宅の電話番号を書いた名刺を烈のポケットに入れたのだ。それを思い出し、電話したら友紀はよろこんで出て来た。  東京と違って日曜日に店を閉める所はない。むしろ日曜がかき入れどきなのだ。烈は誰かと酒をのみたい気分だった。良彦や有里子ではない、誰かとである。そう思って友紀を思い出した。 「多門さんとまた会えるなんて思ってもいなかった」  友紀は小さな女である。有里子と同じ齢だが、小さいせいか稚《おさな》く見える。 「あれから、越智さんと会った?」 「越智さん、奥さんに死なれて、落ち込んでいるみたい」 「落ち込んでいるときに、きみを誘えばいいのに」 「あの人、まじめだから駄目みたい」  男は酒が入ると、たいていの女がよく見える。友紀だってよく見ると可愛いところのある女だ。 「ねえ、多門さん、いいところへ行ってみない。きっと多門さんなんか、行ったことがないと思うけど」 「いいね、案内してもらおうか」  今夜は酔ってみたい気分だった。『コーシカ』を出て歩く。日曜だというのに、人出は多い。東京のサラリーマンは、土曜・日曜は出たがらない。そのために、酒をのませる店はたいてい閉める。  ススキノに入る角のビルに入り、エレベーターで四階に上がった。そこはクラブ風になっていた。店に入ると生バンドがうるさく鳴っている。烈は眉を寄せた。うるさい店は好きになれないのだ。  店の中はライトを絞ってある。ミラーボールが天井で回っている。隅の席に坐った。友紀が水割り、と頼んだ。二つのグラスとおつまみが運ばれてくる。  フロアでは、男と女が踊っている。妙な店である。ホステスはいない。キャバレーではないようだ。 「面白いでしょう。飲み放題、男は三千円、女は二千五百円」  友紀は烈の耳に口を押しつけて来て喋る。そうしないと聞えないくらいの音なのだ。男がやって来て友紀に、 「踊ってくれませんか」  と言う。彼女はニヤリと烈に笑ってみせて踊り場に出ていった。男と抱き合って踊っている友紀を見て、妙な気になった。何人かの女の目が、烈を見ている。  四、五人の女の連れが多い。男たちも男同士で店にやって来るようだ。烈はぼんやり薄暗い店の中を見ていた。何か別の世界に来たようだ。  男から離れて、友紀がもどって来た。 「あたし、口説かれちゃった。でも、あたし先約があるからって断わったわ。ねえ、ここに来る女の人、若いのって少いでしょう」  そう言えば三十代、四十代の女性が多いようだ。 「わかる? 女の人たち、みんなここに男を探しにくるのよ」  え? と烈は目を剥《む》く思いがした。 「女の人たち、踊りながら男を選んでいるの。男たちもここに女を拾いに来るんだけど。札幌には、これと同じ店が四、五軒はあるわ。みんな淋しいのね。寒いとよけい淋しくなるの。そして話がまとまればホテルに行くの」  烈には考えられないことだった。 「この店にはエチケットみたいなものがあるわ。女のほうからは誘わないの。みんな男が誘うのよ。女には選ぶ権利があるってわけ」  別の男が、また友紀を誘いに来た。だが彼女は首を振った。もちろん売春ではない。女たちは合意しても金はとらない。女のほうでホテル代を出すケースだって多い。 「まいったな」  東京などにはないたぐいの店である。 「その気になれる男がいないと、諦めて帰るけど、たいていはカップルになって出ていく。多門さん、踊ってごらんなさい。踊りなんてできなくてもいいの。ただ体を動かしていれば。もちろん、若くてきれいな女は、こんなところには来ない。来なくても男には足りているでしょう」 「みんな未亡人?」 「ほとんど人妻じゃないかしら」 「人妻がどうして」 「だから、淋しいのよ。もしかしたら刺激が欲しいのかもしれない。ねえ、多門さんも女の人を誘ってみたら」  友紀はまた、男に誘われてフロアに出た。烈はダンスを知らないし、女を誘う勇気もなかった。  東京では札幌に単身赴任することをサッチョン族という。だが札幌ではそのようには言わない。サッチョン族は、女に不自由することはない、と友紀が言った。こういうところへ来れば、女が拾えるわけだ。  酔いが回ってくると、若くない女でも、何となく色っぽく見えてくる。札幌の女は、というより、北海道の女はと言うべきだろう、淋しがりやなのか。頼りにならない男は突き放し、追い出す。男に不自由しないからか。  英子や麻実が、男たちと遊ぶのも、何となくわかってきた。もちろん、彼女たちはこういう店に来なくても間に合ったのだろうが。  こういうのが北海道女の体質なのか、これも風土なのか。  何人かの女が目で誘っている。女からは誘わない、というルールだけは守っているのだろう。友紀がもどって来た。 「ねえ踊らないの」 「踊ってその女に誘われると、ついていきそうだ。それでもいいのかな」 「そんなの、いやよ」  と友紀は抱きついて来た。肉が弾んだ。 「落ちついた店でのみたいな」 「じゃ、出ましょう」  と友紀は、烈の腕をとった。女たちの目が妙に絡みついて来る。  また狸小路にもどって、郷土料理の店『屯田《とんでん》の館』に入る。素朴なムードの店で、この店の主人は画家だ、と友紀が言った。  札幌の女は飲みなれているせいか、酒が強い。友紀もかなりのんでいるはずなのに、まだシャンとしている。 「多門さんは、いつ東京に帰るんですか」 「明日だろうな」 「そう、じゃ、もう札幌へ来ないのね」 「それは、わからないけどね」  まだ、事件は烈の中では終っていない。だがどうけりをつけたらいいのかわからない。このまま、うやむやで終ってしまうのか。すでに烈がやることはない。今日、英子の柩を送ったあと帰ってもよかったのだ。友紀を呼びだしたのは、よけいだったのかもしれない。呼び出したからには、最後までつき合わなければならないのだ。友紀の期待を裏切っては失礼だ。  焼魚や焼イカが出てくる。食いものの店である。二人はウイスキーのお湯割りをのんでいた。  友紀は小柄だがいい女だ。一緒に酒を飲んでいてもたのしい。越智剛も友紀のこんなところがよくてつき合っていたのだ。 「多門さんは遊ぶ人かしら」 「それほどの遊び人じゃないけどね」 「男の人って、遊べる人と全く遊べない人がいるのね。女も同じよ。でも、さっきのお店でわかるでしょう。けっこう遊びたい女の人って多いの」 「驚いた。あんな店、東京にはない。東京では不倫と言ったら、こっそり、人に知れないようにするものだよ。あんなに開放的ではない。札幌の女は強いんだ」 「じっとこらえて、男にやしなわれるというのがいやなのね。男を頼らないし、また男に頼られるのはいやなの」  堂々と男に誘われる。人の目なんか気にしていない。家庭はどうなっているのか、と心配になるほどだ。もちろん、家庭のことはちゃんとして遊びに出るのだろう。男を選ぶ権利はあるが、自分からは誘わない。男と関係ができても、しつこくつきまとうことはない。越智倫子がそうだった。一年に二、三回は男に誘われ、抱かれる。それで納得し、男が誘わないとそれっきりになる。  こだわりがないのか、烈が知っている東京の女たちは、一度ベッドを共にすると、それが半永久的に続くものと思い込んでいる。だから、良彦などは最初に女をベッドに誘うときに別れることを考える、と言っていた。そこを計算に入れておかないと、こじれてしまい、別れるときには修羅場を演じることになる。  札幌の女は、しとやかで大胆、ということになるのか。 「門限は?」 「午後十時」 「じゃ、もう過ぎているじゃないか」 「門限は破るためにあるの。あたし、いつもはマジメなのよ、会社を終るとすぐに帰るの。だから、ときには破ってもいいの」 「じゃ、ホテル行こうか」  烈はフェミニストである。一度は誘ってやらなければエチケットに反する。友紀の顔色が変った。頬のあたりがポーッと赤くなったのだ。  店を出ると、うれしい、と言って烈の腕に腕をからませて来た。 「誘ってくれないのか、と思っていた。あたしドキドキしちゃった」  友紀もそれを待っていたのだ。  英子もそうだったのだ、といまになって思う。烈が誘わないものだから、酔った、と言って帰ってしまった。麻実は自分から誘った。遊びなれていたからか、誘わなければ、烈は自分からは誘わない男だと思ったからか。もっとも、英子を誘ったからと言って、どうなるものでもなかったのだ。  そうか、と合点した。女は男から誘ってやらなければならないのだ。  タクシーを拾い、ラブホテルに向った。有里子は例外として、烈はこれまで、自分で女を誘ったことはなかった。もちろん、生バンドの暗い酒場に行かなかったら、友紀も誘わなかっただろう。 「多門さんのような人、自分からは女を誘わないのかと思っていた。うれしい」  と友紀は、声まで潤ませていた。     4  烈は、電話のベルで目をさました。受話器を把《と》る。フロントで、西方さまからです、と言った。 「烈、良彦兄さんが自殺したわ」  烈は黙った。 「聞いているの、良彦兄さんが自殺したのよ。青酸自殺らしいの、遺書もちゃんとあったから」 「わかった。すぐに行くよ」  受話器を置くと、バスにとび込んでシャワーを浴びた。 「良彦が自殺した。自殺するような男じゃなかった」  こういう結末だったのか。烈は、ここ数日、どういう結末になるのかを待っていたようなところがあった。そうでなければ、立原が死んだときに東京に帰っていたはずだ。  バスを出て、仕度をした。フロントでチェックアウトする。荷物なんてショルダーバッグ一つである。ホテルの前で、タクシーを拾った。  草加の邸に着く。家はひっそりとしていたが、家の中は騒動だろう。英子が殺されて池に沈められ、そして昨日、葬式をすませたばかりなのに、また良彦が自殺した。玄関に入ると、有里子がとんで来た。  すでに警察が来ているらしい。自殺は変死である。一応は解剖されることになる。応接室に入った。そこに二人の刑事がいた。西署の鶴見刑事と鹿内刑事と言った。 「多門烈さんですね」 「そうです」 「この遺書を読んでくれますか」  と封書をさしだした。白い封筒の表には、遺書、とだけあった。裏には、良彦、と小さく書いてあった。口は開かれていた。もっとも遺書は封をしないもののようだ。 「あなたが『まりも』の事件を調査しているのは聞いていました」  中から便箋を取り出し開いた。 『さようなら、  とはじめに言っておく。おれは死のうと思う。なぜなのか、おれにもよくわからない。わけのわからない不安がある。生きていたって、しょうがないような気がする。たとえ、これから五十年生きたとしても、たいして違いはないだろう。人生なんて、それほど価値があるとは思っていない。  多門よ、そうは思わないか。たとえ栄光があったとしても、たいしたことはない。老いて死ぬ日を指折り数えて生きているのはやりきれない。おれは、いまだから死ねる。若いから死ねるのだ。これが四十になってからだったら、妻や子供のしがらみがあって、とても死ぬどころではない。  人は死ねる、と思ったときに死ぬべきだ。そうしないと、死期を逸してしまい、みじめになるだけだ。  この世は生きるに値しない。たかが人生、いずれは死がやって来る。それを待つのは愚かなことだ。おれは病院の息子として、医学生として多くの死を見て来た。  姉英子が死んだ。英子は死にたくはなかったはずだ。それなのに死の中に引きずり込まれていった。おれは、中島公園の池から上がった英子の死体を見た。無惨だった。  おれが死ねば、おれの死の理由というのを追及するだろう。そんなものはない、と言っても承知しない。それらしきものはある。  まず第一は、おれが愛人の子ということだ。妾腹の子と言ったほうがわかりやすいか。  父亮三は、姉英子に病院を継がせたがっていた。英子の夫に医師を迎えてだ。おれは余計者だった。  第二に、女に飽きたことだ。女なんて快楽の道具にしか過ぎない。愛するに値する女は一人もいない。もっとも、おれが次から次へと女をものにしていたのは、愛する女を探していたからではない。ただ女を抱くためにだけ口説いた。ベッドを共にすると、女はみな同じだ。女に期待するものは、何もなくなった。  多門よ、おれは言った。女は知れば知るほどわからなくなると。あれは嘘だ。わからないというほど底の深い生きものではない。底の浅い薄っぺらな生きものだ。薄っぺらすぎて気分屋だ。それで男たちは、女はわからないという。はじめから女はわかっている。目で見た、それだけが女のすべてなのだ。  多門よ、おまえにもわかっているだろう。女に期待するな、そして女に惚れるな。女は女としてあつかえば、それで充分足りる。  言い足りないが、多門、おまえにはわかっているだろう。愛なんてものが、この世にはないことが。  さよなら                        良彦』  遺書はプツンと切れていた。良彦の人生のように。烈は便箋を折って封筒に入れ、テーブルの上に置いた。 「多門さん、これは草加良彦さんの字ですか」 「そうです」 「自殺の動機については?」 「よくわかりません。この遺書にある通りではないでしょうか」 「わけのわからない不安とは何ですか」 「本人にしかわからないことでしょう」 「女性とは遊ばれたのですか」 「遊んでいました。次から次へと。金もありましたし、女にもてる男でしたから、遺書にあるように、女にあきたのでしょう。あきるほど女と遊びながら、どこかで女に期待していたのだと思います。言いかえれば、女にこだわったのだと思います」 「多門よ、おまえにはわかるだろう、と書いてありますが、あなたは何を知っているんですか」 「高校のころから一緒でした。性格はよく知っているつもりです」 「このような形で自殺されるような人だったのですか」 「人は、ふとしたときに死にたくなるものです。高校のころも、医大に入ってからも、おれは死にたい、と何度か言ったことがあります。自殺する動機は英子さんの死ではないでしょうか。池から上がったときの英子さんの姿は、ぼくは見ませんでした。まだ若くてきれいだった英子さんが、あのような姿になったのです。デリケートな良彦が、無常を覚えたとしても当然でしょう」  烈は、良彦が愛人の子だったということは知らなかった。今日まで彼はそのようなことは一度も口にしなかった。いま、良彦の行動を思い出してみて、そうだったのかと、思い当ることがないわけではない。  有里子が向うの椅子に坐って聞いていた。彼女はうつむいていて、ちらっ、ちらっと烈を見ていた。有里子は、すでに刑事たちの訊問を受けたのだろうか。  刑事の話では、良彦が青酸をのんだのは、昨夜の十二時前後だったようだ。彼は自分の部屋でウイスキーの水割りをのんでいた。お手伝いが氷と水を運んでいる。それが午後九時ころだったらしい。そのように証言している。その少し前から有里子が話し込んでいて、彼女は十時ころ、部屋を出たようだ。従兄妹《いとこ》だから、何か話すことがあったのだろう。  有里子が去ってから二時間後、良彦は青酸をあおった。彼のグラスからは青酸が検出されたという。  今朝になって、お手伝いが良彦を起しに行き、死んでいるのを発見した。それから騒ぎになったのだ。  刑事たちは、納得したのかどうか草加家から帰っていった。葬儀屋が来て、昨日と同じ部屋に祭壇が作られる。良彦の遺体はまだ解剖からもどって来ていない。遺書もまた筆跡鑑定がされるのだろうか。まだ遺体のない柩が祭壇の前に据えられていた。  近所から、あるいは、病院の職員や看護婦などが手伝いに来ていた。今夜は親友のお通夜になる。明日は葬式だ。烈はこの家に泊ることになった。有里子とその両親も、帰るに帰れなくなった。  正面に良彦の遺影が飾られた。良彦は黒い額ぶちにはまって笑っている。その写真を見ながら、烈は妙な気分になった。  サンダルを突っかけて庭に出た。広い庭で築山や池もある。十年前この家に遊びに来た。良彦と歩いた庭である。高校生の烈に縁側から英子が声をかけた。そのころは年上の英子がまぶしかったものだ。その英子も、そして良彦もいない。  どうやら、良彦の遺体がもどって来たようだ。湯灌《ゆかん》して柩に収められる。烈は庭石に坐って動かなかった。烈はこのような結果になるとは思っていなかった。いや、心のどこかでは、この結果を予想していたのかもしれない。  有里子が庭に下りて来て、烈のそばに立った。さすがに彼女は青ざめていた。 「有里子は、良彦が妾腹の子というのは知っていたのか」 「ええ、ずっと昔、母がそう言ったわ」 「ぼくは知らなかった」  もちろん、それを知っていたからと言ってどうなるというものではなかった。妾腹の子だったとすれば、次から次へと女たちを口説いて、ベッドを共にしたこともわかってくる。淫蕩な血だからというのではない。妾腹の子というコンプレックスが、良彦をそのような行動に走らせたのだ。もちろん、妾腹の子が、みんなこんな行動に走るわけではないのだが。あるいは、良彦は女をものにすることに夢中になったころもあるのだろう。金はある、容姿もいい。良彦に口説かれれば女たちもその気になる。  人はコンプレックスによって衝動的になるもののようだ。正妻の子である英子にひけめを感じていたのだろう。それで偽悪的になる。ニヒルで偽悪的、これだけでも女たちは興味を覚える。 「良彦兄さん、いつか東京で、英子さんと寝たこともあるって話した」  烈は黙った。 「英子さん、それほど抵抗しなかったって」  良彦ならやりそうなことだ。英子に対するコンプレックスの現われだろう。 「良彦兄さん、不良だったのよ。そんなことするなんて、あたしには考えられない。もしかしたら、良彦兄さんは英子姉さんを愛していたのかしら。それでお姉さんの死体を見て、自殺する気になったんじゃないかしら」 「違うだろう、良彦は愛なんてものは信じなかった。ただ女にあるのは肉体だけさ」 「それじゃ悲しいわ」 「悲しいね、人が死ぬのは哀しい。親友が死ぬのはもっと哀しい」  夜になり、お通夜がはじまった。お焼香の客が次々と現われる。僧の読経の声も聞えはじめた。  烈の耳に、お手伝いが囁いた。 「旦那さまがおよびです」  草加亮三は、二階の書斎にいると。     5 「多門くん、しばらくだったね、きみが札幌に来ていることは有里子に聞いていた。まあそこに坐ってくれたまえ」  亮三は白衣を着ていた。自分の家にいても院長なのだ。この家の裏と病院は渡り廊下でつながっている。宿直の医者はいるが、急患があると、深夜でも病院に行かなければならない。  烈は頭を下げ、そして椅子に坐った。続いての不幸である。言葉もない。お手伝いが紅茶を運んで来た。 「司法試験はどうですか」 「見込みはありません」 「良彦は、多門くんとは親友だった。あの遺書は多門くんに宛てたものだ。それに今度の事件は、良彦がきみに調査を依頼したものだと聞いた」 「はい、良彦くんに頼まれました」 「話してくれませんか」  烈は黙った。やはり話さなければならないだろうと思う。亮三も黙った。 「お父さんにはつらいことだと思います」 「わかっている。何を聞いても驚かないよ。急行『まりも』の事件は聞いている。だいたいの予想はついているつもりだ」 「調査の依頼者は良彦くんです。なぜぼくに調査を頼んだのか、と思っていました。ぼくが裏切らない、と思ったからです」 「それはわかっている。良彦はもう死んだ。親として知りたいのですよ」  三月十三日、越智倫子は、急行『まりも』に乗り、殺された。その新聞記事を烈に見せ、事件の調査を依頼して来た。なぜ依頼して来たのか? 烈への挑戦だったのか、あるいは心のどこかで自滅を望んでいたのか、また証言者として烈が必要だったのか。  烈はその辺から話しはじめた。烈は良彦が何を考えているのか知りたくて、調査を引き受けた。  越智倫子は、黒いコートの男に釧路に誘い出された。捜査本部はその男を捜索しはじめたがわからない。烈は英子に会い、翌日、寺迫麻実に会い、六年前の事故を聞いた。麻実は、立原恭平のことは知らなかった、が西署の交通課に行き、事故を調べたことで、立原のことが、捜査本部にもわかった。  そして麻実も殺された。そのとき、烈は犯人は英子かと思った。秋には医師と結婚する。子供をはねて死なせたことを世間に知られたくない。動機は保身である。  だが捜査本部は、立原の恨みによる犯行と考えた。これは良彦の作戦通りだったのに違いない。立原は自殺し、英子の死体は池から上がった。捜査本部では、娘奈保を車ではねられた恨みを晴らし、立原が自殺した、として事件は解決した。 「ところが、そうではなかった、そうだね」 「ぼくは、釧路の黒いコートの男は、良彦くんではないか、と思ったんです。良彦くんは以前、倫子さんとは関係があった。麻実さんが話してくれたことです。倫子さんがなぜ釧路まで行ったか、釧路に呼びだしたのが良彦くんなら、倫子さんは釧路まででも行くだろうと考えました。それで、ぼくは東京まで良彦くんの写真を取りにもどり、東京から釧路へ行きました。そして、良彦くんと倫子さんが入ったホテルをつきとめました。釧路観光ホテルでした」  釧路にはホテル、旅館が六十軒ほどある。良彦が泊るのなら、一流のホテルだろうと考えた。倫子でも一度聞けばメモもしないでわかるホテル、と考えればホテルは十軒ほどに絞られる。  捜査本部がついにつきとめられなかったホテルが、烈にはすぐわかった。捜査本部には黒いコートの男が誰だか、全く予想ができなかったからだ。良彦は、倫子と一緒に急行『まりも』に乗り、十四日の午前二時ころ、列車が新得駅に着く前後に倫子を殺した。その時間に殺したのは容疑を立原に向けるためである。  西署で鑑識の報告を聞いたとき、烈は疑問を抱いた。倫子の体内にあった精液の血液型がO型で、男の陰毛がA型だったことだ。  良彦は立原のO型の精液を注入した。立原の犯行にみせかけるためだ。だが彼は自分の陰毛が抜け落ちたことには気付かなかった。もちろん、このことを亮三に話す気はなかった。  英子、麻実、倫子の乗った車が立原奈保をはねた。そのことを良彦はどうして知ったのか、それを知らなくては、この計画は立てられない。  良彦は英子の日記を見て知ったのだ、と烈は考えた。その事故を利用しようと計画を練ったのだ。 「待ってくれ、良彦はなぜ、立原の犯行にみせかけて、英子と友だち二人を殺さなければならなかったのかね」 「良彦くんが殺したかったのは、英子さん一人だと思います。ですが、英子さん一人を殺しては、まず自分に疑いがかかる。立原恭平の恨みに持っていけば、自分は疑われないですむ。事実、良彦くんの計画は成功でした。事件は解決し、捜査本部は解散したのですから」 「その証拠は?」 「ありません。ぼくは警察ではありませんので、証拠はいらないのです」 「それでは、良彦が殺したとは言えないのじゃないのかね」 「探せば出てくるのでしょうが、ぼくは探す気はありません。立原の犯行にみせかけるために、最近ふたたび流行《はや》りはじめたスマイルバッジを使いました。倫子さんにも麻実さんにも、そして英子さんにも、そして立原の部屋にもです。そして立原の遺書を書いたのです。立原の筆跡は真似たのです。もちろん、道警では筆跡鑑定はしました。だが遺書の内容が優先したのです。英子さんが中島公園の池の底に沈んでいる。それは犯人しか知らないことです。捜査本部は、立原が三人に恨みを晴らして自殺したと考えた」  亮三は、うむと唸った。 「お父さんは、ただぼくのフィクションとして考えて下さればいいのです。良彦くんの事件は、ぼくが闇の中に葬ってしまいます。でも、良彦くんは四人を殺した重さに耐えられなかった。それで自殺したんです」 「もう一度聞く、良彦はなぜ英子を殺さねばならなかったのかね」 「英子さんのこの秋の結婚だと思います」 「英子の結婚? 英子が篠田くんと結婚するのがどうしていけないのかね」 「篠田さんとおっしゃるのですか、優秀なお医者だそうですね」 「うちの内科部長だ。まだ四十歳だけど、よく患者を診《み》るし、勉強もする。草加病院をまかせられる男だ。彼は五年前に離婚している。問題はなかった。篠田くんも英子も承知していたことだ」 「それが、良彦くんの殺意だったと思います」 「どうして」 「良彦くんは、コンプレックスの強い男でした。妾腹の子として英子さんにも以前からコンプレックスを持っていたと思われますし、篠田さんとなれば、なおさらでしょう。彼は篠田さんと英子さんに、草加病院を乗っ取られると考えたんです。少なくとも昨年までは、良彦くんは、草加病院は自分のものだ、と考えていたはずです」 「そんなばかな」 「お父さん、あなたは良彦くんの気持を考えてあげなかったんです。篠田さんと英子さんの結婚を決める前に、良彦くんの了解を求められましたか」 「そんなこと、良彦の了解を求めることじゃない」 「お父さんは、良彦くんが本妻の子でないことをお忘れでした」 「良彦には草加病院はやっていけない」 「そのお父さんの考えが、良彦くんの殺意になったのです。草加家の財産が、みんな英子さんと篠田さんに持っていかれる。結婚する前に英子さんを殺してしまえば、財産はみんな自分のものになる。草加家の財産は百二十億と聞いています。それを自分のものにするのと、人にとられるのとは大違いです。もちろん、ぼくたち貧乏人にはない考え方ですけど」 「まさか、まさか」  と亮三は呟いた。     6  翌日—。  烈は、良彦の葬式をすますと、斎場までは行かずに、東京へ向った。有里子は、両親と一緒に帰るはずである。  彼は法律事務所にもどった。帰ったとたんに忙しくなった。所長が強姦事件の弁護を引き受けたのだ。その調査で走り回り、結局、女のほうが告訴を取り下げた。  四月一日、土曜日—。  烈は、渋谷・宇田川町のバア『ピニヨン』へ行った。有里子と待ち合わせたのだ。カウンターの隅に坐り、バーボンの水割りをたのんだ。腕時計を見る。約束の時間までには、まだ三十分の時間があった。  まだ、体も頭も、札幌から抜けきっていなかった。頭では麻実の体も、友紀の体も覚えている。 「ご一緒していいかしら?」  と烈と同年齢くらいの女が、隣りの椅子に坐ろうとした。化粧も服装も派手だった。顔やプロポーションには自信があるようだ。 「いま、連れが来るんだ」  女はフンと鼻を鳴らして、背を向けた。札幌の女とは違うな、と思う。札幌の女は、男に興味があっても、自分からは声をかけて来ない。男を選ぶ権利は女が持っているが、男に誘われるのをじっと待っている。  友紀にしてからがそうだった。烈がホテルに行こうというのをいじらしく待っていたのだ。  札幌パークホテルに、脅しの電話があった。声を変えて。あの声は良彦だったのだ。チンピラが烈を襲った。これも良彦が金を送って頼んだのだ。良彦らしいやり方だ。脅されるとそれに反撥する烈の性格を利用しようとした。幼稚なやり方だが、良彦ははじめから、烈を挑発していた。この店で殺人事件の調査をたのんだときからだ。  もちろん、良彦には自分が死ぬ予定はなかった。これだけが計画になかったことだ。  ドアが開いて、有里子が走り込んで来た。 「ごめんなさい、遅くなっちゃった」  振りむくと、さっきの女がこっちを見ていた。烈の視線と合うと、女はフンとそっぽを向いた。 「どうしたの?」 「あの女に誘われた」  有里子も振り向いた。 「行こうか」  と言って椅子を立った。 「どこへ」 「有里子を抱けるところへ」 「いやーね」  と言い、彼女は体をくねらせた。ここでは話せないことなのだ。店を出ると、タクシーを拾った。  三十分後にはラブホテルの一室にいた。先に烈がバスルームに入った。出て来ると、入れ違いに有里子がバスに入った。  冷蔵庫からビールを出してのむ。 「今日で、有里子ともお別れか」  と呟いた。可愛い女だったのに、と残念な気がする。彼女の体もやっと烈に馴れて来たというのに。  有里子が浴衣姿でバスから出て来た。体つきも、札幌に行く前とは違って来ている。女の体になって来たのだ。 「少し、お喋りしよう」 「何なの」 「釧路に行く前に、東京に一度もどった」 「そう、知らなかったわ」 「良彦のマンションで、ビデオを見た」 「え?」  と声をあげ、次第に顔色が変っていく。そして、 「ヒッ!」  と声をあげると、両手で顔をおおい、その場にペタリと坐り込んでしまった。 「すまん、残酷なことだった。有里子には。だが、それを言わなくては、どうしようもなかった。言わないですめば、それにこしたことはなかったが」  烈は冷めたい声になっていた。 「君は良彦に誘われて、マンションに行った。そこで良彦に挑まれた。有里子はビデオカメラが回っているのを知らなかったんだ。百二十分のビデオだった。あとで、良彦にそのビデオを見せられ、きみはびっくり仰天した。その上で、おそらく良彦に、多門にこのビデオを見せると脅され、良彦の殺人計画に協力することになった」  烈も喋るのはつらい。だが、黙ってすますわけにはいかないのだ。 「いまさら、良彦を悪党とか悪魔とか言っても仕方がない。あいつはそういう男だったのだ。あるいは良彦は有里子を好きだったのかもしれない」  いやいやするように、彼女は体をゆすった。 「ぼくに、そのビデオを見せて、多門、これが女の正体だ、図太いよ、と良彦は言った。ぼくはそうは思わない。有里子が良彦に抱かれ、それをビデオに撮られようと、ぼくはかまわない。あのビデオをぼくに見られたくなくて、良彦の殺人計画に協力した。そんな有里子を、やはり女だなと思う。きみが協力しなければ、良彦の殺人計画はなり立たなかったのだ」  咽《のど》を潤すために烈はビールをのんだ。苦いビールだった。 「きみは、東田久仁子の役を果した。東田久仁子は立原恭平を誘った。立原は誘いに乗って来た。久仁子が立原に近づいた目的は、二つあった。一つは、立原のアリバイをなくすためだ。十三日の夕方、久仁子は立原を誘いホテルグリーン|3《スリー》にチェックインした。そして午後十時四十分ころチェックアウトした。その記録はホテルに残る。二十分あれば、札幌発下り急行『まりも』の十一時に間に合う。もちろん、立原は『まりも』には乗っていない。立原のそのあとのアリバイはないのだからね。東田久仁子がみつからない限りは。その前日、十二日、良彦は釧路観光ホテルにチェックインして、電話で越智倫子を誘う。倫子は自分に誘われれば、どこでもいそいそと出て来ることを良彦は知っていたのだ。良彦以外には、倫子を釧路に誘い出せる男はいない。ぼくはそう考えた。もちろん、はじめからそう考えたわけではない。寺迫麻実がヒントをくれた。何年か前に、倫子は良彦に抱かれたことがあると」 「もう止めて!」  と有里子は言った。 「きみは聞いているだけでいい。釧路駅の黒いコートの男は良彦だと思った。その通りだったけどね。有里子がこの事件に一枚咬んでいると思ったのは、立原の遺書だよ。きみは良彦が、倫子、麻実、英子の三人を殺したのだと思った。だからそう書いた。ところが麻実を殺したのは良彦ではなかったんだ。麻実は別の男に殺された。覚醒剤がらみでね。良彦はびっくりしただろうと思う。殺すはずだった麻実が殺されてしまったんだからね」  一気に喋り、烈は息をついた。有里子は背中を丸くして両手で顔をおおっているが、すでに震えはなくなっていた。ショックは過ぎたのだろう。 「東田久仁子は、立原の筆跡を真似て遺書を書いた。筆跡を真似るには、立原の文字の癖を知らなければならない。立原は商売用の手帳を持っていた。ぼくが想像するのに、ラブホテルで、立原を睡眠薬で眠らせておいて、手帳のページをハンディコピーで写し取った。いまは手軽なコピー機があるからね。そのコピーで立原の筆跡の癖を練習した。こんなことは、男にはできないことだ。だから、良彦の計画の中には有里子が入っていた。きみがぼくを愛していることを知っていた。その愛を利用したんだ」  有里子は涙を拭って顔を上げた。 「立原奈保は、車にはねられたとき、スマイルバッジなんてつけていなかった。スマイルバッジは、犯行を立原の恨みと思わせるためのただの小道具だった。これもぼくの推測にすぎないがね」  有里子は、床から立ち上がって、テーブルを挟んだ烈の向いの椅子に坐った。 「きみは、立原を連れだした。どこへ行ったのかな」 「定山渓温泉よ」 「有里子に誘われれば立原はどこでも行っただろう。きみに夢中だったろうからね。それを捜査本部は、立原の逃走とみたわけだ。そして、二十一日の夜か、二十二日の早朝、きみと立原は立原の家へもどって来た。そして用意しておいた缶コーヒーを二個取り出す。一個には青酸を入れておいた。缶の底に小さな孔を開け、そこから青酸を注入し、テープを貼っておく。立原は疑いもしないで、コーヒーのプルトップを外し、呑むだろう。きみはもう一個のコーヒーを呑む。立原は苦しんで死ぬ。そのあとに自分のコーヒーを空にし、立原の缶に残ったコーヒーを自分の缶に入れる。もちろん、指紋は拭いとり立原の指紋をつけた。用意しておいた遺書を炬燵《こたつ》の上に置き、きみは炬燵と石油ストーブを消して消える。スマイルバッジを机の上に置くのを忘れてはいけないな。きみはうまく、運よくやってのけたのだ」  有里子の唇は笑っていた。どうにか開き直ったのだ。 「そうよ、烈の言う通りよ。寺迫麻実を殺したのは良彦兄さんだと思い込んでいたわ。でもそんなことどうだっていいじゃない」 「いずれは麻実も良彦に殺されていたんだから。でも、立原が書いた遺書ならば、麻実まで殺したとは書かないだろう。だが、そこで遺書のウソが立証されたんだ。その夜、良彦は、中島公園に英子を呼び出した。きみが言った。良彦は英子まで抱いたと。だから、良彦に呼び出されれば英子は出て来る。そこを首を絞めて殺し、遺書に書いたとおりロープでブロック二個を結びつけ、ボートを漕ぎ出して池に沈めた」 「烈がビデオを見たのならわかるでしょう。三月十一日だった。渋谷の『ピニヨン』であたしたちは待ち合わせたわ。あなたは用ができたと言って来なかった。その夜、良彦兄さんはあたしをマンションに誘った。お酒も入っていたし、まさかあんなことになろうとは思わないからマンションについて行った。彼は、あたしを寝室に誘って襲いかかって来たの。はじめは抵抗したわ。だけど、あたしはだんだん良彦兄さんの言うとおりになった。あたしは、子供のときから、良彦兄さんに憧れていたの。もちろん男と女の仲になるなんて考えてもいなかったけど。良彦兄さんは、女のあつかいには馴れていた。あたしも次第にその気になっていった。もちろんビデオカメラが回っているなんて思いもしなかった。あの人は、あんなやり方が好きなの。あんなやり方でしか刺激がなくなっていた。ビデオにとられたのあたしだけじゃない。ビデオを見せられたときはショックだった。烈に見られたくない、と思ったのは当然でしょう。ビデオを烈に見せると言われて、あたしは良彦兄さんに協力する気になった。そして立原に近づいていった。おそらく烈の考えている通りだわ。でも少し違うの。何度か良彦兄さんに抱かれているうちに愛するようになった。子供のころからの憧れの人だもの。愛して当然でしょう。あたしは、愛のために立原を殺したの」 「本妻の子と妾の子というのは、どうしても意識の持ち方が違う。良彦がニヒルで女蕩しになったのは当然だと思うな。性格がひねくれてしまう。良彦が英子まで抱いたのは妾腹の子のコンプレックスだよ。認知はされているが、妾の子であることには違いがなかった。そこに草加亮三が、篠田医師と英子の結婚を決めた。良彦に相談もしないでだ。そこに良彦の憎悪が膨んだ。ただ草加家の財産だけではなかった。亮三に無視されて、良彦は英子を殺すことを考えたのだ」 「良彦兄さんは、目的を達したのに自殺してしまったわ。池から上がった英子さんの無惨な死体を見てショックだったんだわ」 「有里子、きみは英子さんのお通夜の夜、ぼくのホテルに泊った。草加の家にいれば、良彦に抱かれる。それがいやでホテルに来たんだ。きみは良彦を愛してなんかいなかった」 「愛していたのよ、あたしの愛は烈から良彦兄さんに移っていたのよ」 「うぬぼれるわけじゃないが、それは違う。有里子、きみは良彦を殺した!」 「う、うそよ、そんなこと」 「ぼくは、刑事に良彦の遺書を見せられたとき気付いた。良彦の字によく似てはいたが、良彦の字ではなかった。おそらく有里子は、ビデオを見せられたとき良彦に殺意を抱き、立原の遺書を書きながら、良彦の遺書も書いていた。良彦の字は筆圧が強かった。便箋で書けば、二枚下くらいまでペンの圧力で字が写った。遺書にはそれがなかった。文字は似ていても、筆圧までは考えなかった」  二度目のショックで有里子は、また両手で顔をおおい、体をゆすった。 「二十六日の夜、きみは良彦の部屋に入った。一度十時ごろ出たが、また行った。良彦は目的を達してホッとしていたし、有里子を抱いたあとでもあり気を抜いていて、水割りのグラスに青酸を入れられたことに気付かなかったのだ。良彦が死んだあと、用意しておいた遺書を置いた」  二人はしばらく黙った。 「それだけなの」 「それだけだ」  有里子は疲れきったような顔で立ち上がり、バスルームの入口にある脱衣場で下着をつけはじめた。そしてスカートをはきスーツを着た。ハンドバッグを持ち、ドアのほうへ向う。 「有里子、良彦を殺していない、とどうして言わないのだ」  彼女は足を止めた。 「良彦兄さんは、あたしが殺したわ。憎かった。…… 烈、釧路ではうれしかったわ」  とドアに歩く。 「有里子、死ぬなよ!」  彼女は、外へ出て行った。ドアが軽い音をたてて閉まった。烈は去っていく靴音を聞いていた。     (了) ●時刻表は一九八九年三月号を使用しました。 ●本作品は、一九八九年七月、講談社ノベルスとして刊行されました。 ●本電子文庫版は、一九九四年五月刊の講談社文庫版を底本としています。